コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

板垣退助 いたがき たいすけ

百科事典マイペディアの解説

板垣退助【いたがきたいすけ】

明治の政治家。土佐高知藩出身。旧姓は乾(いぬい),名は正形。会津戦争の功績で,戦後藩政の改革を主導。1871年参議。1874年愛国公党を組織し,民撰議院設立建白書を提出。
→関連項目愛国社伊藤博文内閣大隈重信内閣憲政党河野広中国会開設請願運動自由新聞自由党史自由民権征韓論馬場辰猪立憲自由党立志社

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

板垣退助 いたがき-たいすけ

1837-1919 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈(おおくま)重信と隈板(わいはん)内閣をつくり,内相。伯爵。33年政界を引退し,社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾(いぬい)。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

板垣退助

没年:大正8.7.16(1919)
生年:天保8.4.17(1837.5.21)
幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,民権運動指導者,政党政治家。高知城下に藩士乾正成の子として生まれた。幼名猪之助,通称退助,諱正形。号は無形。藩主山内容堂(豊信)の側用役から始まり藩の要職を歴任。慶応3(1867)年,京都で中岡慎太郎と協力し薩摩藩と密かに私的な討幕盟約を結んだが,藩の路線に反し,要職を外された。戊辰戦争では土佐藩軍司令,東山道先鋒総督府参謀に任じ甲斐,北関東,会津に転戦,この時期に乾姓から先祖の旧姓板垣に復した。藩では家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進。明治4(1871)年御親兵編成に参画,廃藩置県後参議。西郷隆盛らと留守政府を預かったが,征韓論争で敗北し辞職。7年1月東京に愛国公党を組織,後藤象二郎下野参議らと民選議院設立建白書を提出したが却下され,帰郷して立志社を設立,士族教育・授産事業を展開した。8年参議に復帰したが,間もなく辞職。西南戦争(1877)に際して西郷軍へ呼応する機会をうかがったが成らず,立志社の獄を結果した。 10年,国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出したが,却下された。その後,愛国社再興運動から国会期成同盟へと運動を進めて自由民権運動の全国的拡大に貢献。14年政変と国会開設の詔が煥発されたのを機に自由党を創設,総理に就任,以後全国を遊説して党勢拡張に努め,15年岐阜遭難事件では,負傷しながらも「板垣死すとも自由は死せず」と暴漢を叱咤したと世間に華々しく喧伝された。この年,外遊資金の出所疑惑で自由党は大混乱に陥ったが,欧州の憲政事情研究の名目で後藤とふたりで外遊。16年6月帰国。時に各地で過激な突出事件を起こし党の統制は混乱を極め,17年決断して自由党をいったん解党した。華族制度に批判的だったが,20年固辞しきれず伯爵を受爵。条約改正反対運動では伊藤内閣の政治姿勢を厳しく批判。22年2月,憲法発布され,議会開設は翌年に迫った。高知にいた退助は,愛国公党を再興して自由党再建を図る。23年旧自由党諸派は立憲自由党として結束,24年3月党名を自由党と改称,推されて総理に就任した。第2次伊藤内閣の内相に就任(1896)。31年,最初の政党内閣である憲政党大隈(隈板)内閣の内相を経歴,33年9月,立憲政友会の成立を機に政界を隠退した。晩年は清貧の生活を続けながら社会改良運動に専念。また39年「一代華族論」を公表して華族制度批判の意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退した。<著作>『板垣退助全集』<参考文献>板垣退助監修『自由党史』

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

いたがきたいすけ【板垣退助】

1837‐1919(天保8‐大正8)
幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

いたがきたいすけ【板垣退助】

1837~1919) 政治家。土佐の人。討幕運動に参加。維新後参議となったが、征韓論を主張し、敗れて下野。民撰議院設立建白書を提出するなど自由民権運動を指導し、1881年(明治14)自由党を結成。第二次伊藤内閣・第一次大隈内閣の内相。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

板垣退助
いたがきたいすけ

[生]天保8(1837).4.17. 土佐
[没]1919.7.16. 東京
自由民権運動の指導者。伯爵。土佐藩主山内容堂を補佐して明治維新に参画。 1874年「民撰議院設立建白書」を提出し,藩閥政治を攻撃,自由民権論を主張した。 81年自由党を創設。 82年岐阜に遊説の際,刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

板垣退助
いたがきたいすけ
(1837―1919)

明治の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日、土佐藩馬廻役(うままわりやく)乾栄六正成(いぬいえいろくまさなり)の長男として城下中島町に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、のち退助と改める。諱(いみな)は正形(まさかた)、無形と号す。1854年(安政1)12月江戸勤番を命じられたが、1856年帰藩。1860年3月父病没のため家督を相続、220石馬廻役となる。1861年(文久1)10月御納戸方(おなんどかた)となり江戸留守ならびに御内用役(おそばようやく)を命じられる。1862年には山内容堂の御側用役となる。このころから攘夷(じょうい)論を唱え始めたが、武市瑞山(たけちずいざん)らの急進的な勤王党とは対立し、1865年(慶応1)には後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに藩庁の大監察として武市ら勤王党員のおもだった者を糾問し処刑した。1867年5月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見して薩土(さつど)討幕同盟を確約し、帰藩後挙兵の準備にとりかかった。
 1868年(慶応4)1月戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まるや、板垣は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討し、28日に京都に到着した。そしてただちに東山道先鋒(せんぽう)総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣した。板垣退助と名のったのはこのときからである。大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を追討して11月に帰藩。1869年(明治2)藩の大参事として藩政改革を行い、1871年新政府の参議に任ぜられる。1873年10月に西郷らと征韓論を主張して敗れて参議を辞した。1874年1月には後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰(みんせん)議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動に乗り出した。1875年3月ふたたび政府参議となったが、議あわず10月には辞職した。その後は自由民権運動に挺身(ていしん)し、1881年10月結党の自由党総理に推され、1882年4月には遊説中の岐阜で凶変にあった。この年11月から翌年6月まで欧州を視察。帰国前後から自由党解散の意向をもち始め、1884年10月には自由党幹部と合議のうえ、ついに自由党解散を行った。1887年5月伯爵に叙せられ、再三固辞したが許されず、7月に叙爵。同年8月には国会開設、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏し、高知に引きこもった。
 大同団結運動の首唱者後藤象二郎が1889年(明治22)3月に突如黒田清隆(くろだきよたか)内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反対派が激しく対立して大同団結運動が分裂状態に陥ったとき、板垣は後藤や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、1890年5月に愛国公党を組織して大同派の団結を図った。同年9月には板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、板垣は第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政府に買収された責任を感じて離党した。3月には復党して党総理となり、1895年には伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣との協力関係を進めて1896年4月内務大臣となる。9月に内相を辞して党活動に専念し、1898年憲政党内閣のもとでふたたび内務大臣となったが10月に辞職した。その後政治活動から身を引いて社会問題に専心して風俗改良会を組織し、機関誌『友愛』を創刊した。1907年(明治40)には『一代華族論』を公表したりしたが、大正8年7月16日死去。享年83歳。従(じゅ)一位に叙せられる。[後藤 靖]
『絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(1974・清水書院) ▽平尾道雄著『無形板垣退助』(1975・高知新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の板垣退助の言及

【愛国公党】より

…(1)自由民権政社。征韓論に敗れて下野した前参議板垣退助,後藤象二郎,副島種臣,江藤新平や政府高官の由利公正,岡本健三郎,小室信夫,古沢迂郎(滋)が新しい反政府運動を起こそうとして1874年1月12日に結成した。〈天の斯民を生ずるや,之に附与するに一定動かすべからざるの通議権理を以てす。…

【大阪会議】より

…1875年1月から2月に,大阪で開かれた政府指導層間の会談。征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。…

【自由党】より

…その過程で機関紙発行問題や主導権争いから,沼間守一ら東京嚶鳴社(おうめいしや)グループと九州派が参加を拒否するに至った。結局,役員選挙において総理板垣退助,副総理中島信行以下の党役員が決定し,自由党は正式に発足する。党の盟約には〈自由を拡充し,権利を保全し〉〈善良なる立憲政体を確立する〉ことがうたわれていた。…

※「板垣退助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

板垣退助の関連キーワード高知県高知市薊野中町高知県高知市比島町高知県高知市本町高知県高知市萩町明治六年の政変明治6年の政変小八木五兵衛五十子 敬斎高橋 嘉太郎小西 甚之助伊藤 一郎高知新聞社高橋嘉太郎五十子敬斎100円札加藤 倉吉板垣 守正大阪会議栗原亮一植木枝盛

板垣退助の関連情報