板垣退助(読み)イタガキタイスケ

デジタル大辞泉 「板垣退助」の意味・読み・例文・類語

いたがき‐たいすけ【板垣退助】

[1837~1919]政治家土佐の人。愛国公党を結成し民撰議院設立建白書を提出、また土佐に立志社をつくり自由民権運動を指導した。明治14年(1881)自由党を結成。同31年、大隈重信と日本最初の政党内閣を組織、内相となった。

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精選版 日本国語大辞典 「板垣退助」の意味・読み・例文・類語

いたがき‐たいすけ【板垣退助】

  1. 政治家。旧姓、乾(いぬい)。土佐藩出身。幕末、討幕運動を推進。維新後、参議となったが征韓論を主張して辞職。愛国公党を結成して民選議院設立建白書を提出する。以後自由民権運動を指導して自由党を創設。のち、立憲自由党を組織し内相となる。天保八~大正八年(一八三七‐一九一九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「板垣退助」の意味・わかりやすい解説

板垣退助
いたがきたいすけ
(1837―1919)

明治の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日、土佐藩馬廻役(うままわりやく)乾栄六正成(いぬいえいろくまさなり)の長男として城下中島町に生まれる。幼名猪之助(いのすけ)、のち退助と改める。諱(いみな)は正形(まさかた)、無形と号す。1854年(安政1)12月江戸勤番を命じられたが、1856年帰藩。1860年3月父病没のため家督を相続、220石馬廻役となる。1861年(文久1)10月御納戸方(おなんどかた)となり江戸留守ならびに御内用役(おそばようやく)を命じられる。1862年には山内容堂の御側用役となる。このころから攘夷(じょうい)論を唱え始めたが、武市瑞山(たけちずいざん)らの急進的な勤王党とは対立し、1865年(慶応1)には後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに藩庁の大監察として武市ら勤王党員のおもだった者を糾問し処刑した。1867年5月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見して薩土(さつど)討幕同盟を確約し、帰藩後挙兵の準備にとりかかった。

 1868年(慶応4)1月戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まるや、板垣は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討し、28日に京都に到着した。そしてただちに東山道先鋒(せんぽう)総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣した。板垣退助と名のったのはこのときからである。大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を追討して11月に帰藩。1869年(明治2)藩の大参事として藩政改革を行い、1871年新政府の参議に任ぜられる。1873年10月に西郷らと征韓論を主張して敗れて参議を辞した。1874年1月には後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰(みんせん)議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動に乗り出した。1875年3月ふたたび政府参議となったが、議あわず10月には辞職した。その後は自由民権運動に挺身(ていしん)し、1881年10月結党の自由党総理に推され、1882年4月には遊説中の岐阜で凶変にあった。この年11月から翌1883年6月まで欧州を視察。帰国前後から自由党解散の意向をもち始め、1884年10月には自由党幹部と合議のうえ、ついに自由党解散を行った。1887年5月伯爵に叙せられ、再三固辞したが許されず、7月に叙爵。同年8月には国会開設、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏し、高知に引きこもった。

 大同団結運動の首唱者後藤象二郎が1889年(明治22)3月に突如黒田清隆(くろだきよたか)内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反対派が激しく対立して大同団結運動が分裂状態に陥ったとき、板垣は後藤や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、1890年5月に愛国公党を組織して大同派の団結を図った。同年9月には板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、板垣は第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政府に買収された責任を感じて離党した。3月には復党して党総理となり、1895年には伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣との協力関係を進めて1896年4月内務大臣となる。9月に内相を辞して党活動に専念し、1898年憲政党内閣のもとでふたたび内務大臣となったが10月に辞職した。その後政治活動から身を引いて社会問題に専心して風俗改良会を組織し、機関誌『友愛』を創刊した。1907年(明治40)には『一代華族論』を公表したりしたが、大正8年7月16日死去。享年83歳。従(じゅ)一位に叙せられる。

[後藤 靖]

『絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(1974・清水書院)』『平尾道雄著『無形板垣退助』(1975・高知新聞社)』


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百科事典マイペディア 「板垣退助」の意味・わかりやすい解説

板垣退助【いたがきたいすけ】

明治の政治家。土佐高知藩出身。旧姓は乾(いぬい),名は正形。会津戦争の功績で,戦後藩政の改革を主導。1871年参議。1874年愛国公党を組織し,民撰議院設立建白書を提出。1875年大阪会議で参議になるが,下野し民権運動を推進。1881年自由党の党首。1884年運動の激化で解党し,板垣の政治生命は事実上終わるが,1898年大隈重信とともに隈板(わいはん)内閣を組織し,その内相を務めて引退。
→関連項目愛国社伊藤博文内閣大隈重信内閣憲政党河野広中国会開設請願運動自由新聞自由党史自由民権征韓論馬場辰猪立憲自由党立志社

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改訂新版 世界大百科事典 「板垣退助」の意味・わかりやすい解説

板垣退助 (いたがきたいすけ)
生没年:1837-1919(天保8-大正8)

幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。4月帰郷して立志社を結成。75年大阪会議の結果一時参議に復帰したが,ほどなく辞職。78年9月立志社が中心となって愛国社を再興し,国会の開設を求める自由民権運動を推進した。81年10月自由党の結成にあたって総理に推され,翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷。このとき叫んだという〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは,彼の経歴中最も輝かしい時期の象徴である。11月一部党員の反対をおしきってヨーロッパ諸国を外遊した。その経費は自由民権運動の弱体化をねらう政府筋から出されたといわれる。翌83年6月帰国するや自由党の解党を提起。党員の反対によって一時保留したが,党財政の窮乏化と下部党員の急進化がすすみ,84年10月党幹部は解党を決定。87年再三辞退したが認められず伯爵となる。90年立憲自由党に参加し,翌年一時離党したが復党して,党名を自由党と改称した際,総理となった。95年自由党は第2次伊藤博文内閣と提携し,翌年同内閣の内務大臣にむかえられた。98年6月自由・進歩両党の合同により憲政党が結成され,同党を基礎として第1次大隈重信内閣が成立すると,これに内務大臣として入閣した(隈板内閣)。しかし,党内対立のため内閣はわずか4ヵ月で総辞職。1900年憲政党の解党,立憲政友会の結成を契機として政界を引退し,以後社会事業にとり組んだ。輝かしい前半生に比べて寂しい晩年であった。彼の監修による《自由党史》(1910)は貴重な史料の引用とともに明治前半期の政治史を論評したすぐれた史論として評価されている。
自由民権
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朝日日本歴史人物事典 「板垣退助」の解説

板垣退助

没年:大正8.7.16(1919)
生年:天保8.4.17(1837.5.21)
幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,民権運動指導者,政党政治家。高知城下に藩士乾正成の子として生まれた。幼名猪之助,通称退助,諱正形。号は無形。藩主山内容堂(豊信)の側用役から始まり藩の要職を歴任。慶応3(1867)年,京都で中岡慎太郎と協力し薩摩藩と密かに私的な討幕盟約を結んだが,藩の路線に反し,要職を外された。戊辰戦争では土佐藩軍司令,東山道先鋒総督府参謀に任じ甲斐,北関東,会津に転戦,この時期に乾姓から先祖の旧姓板垣に復した。藩では家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進。明治4(1871)年御親兵編成に参画,廃藩置県後参議。西郷隆盛らと留守政府を預かったが,征韓論争で敗北し辞職。7年1月東京に愛国公党を組織,後藤象二郎ら下野参議らと民選議院設立建白書を提出したが却下され,帰郷して立志社を設立,士族教育・授産事業を展開した。8年参議に復帰したが,間もなく辞職。西南戦争(1877)に際して西郷軍へ呼応する機会をうかがったが成らず,立志社の獄を結果した。 10年,国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出したが,却下された。その後,愛国社再興運動から国会期成同盟へと運動を進めて自由民権運動の全国的拡大に貢献。14年政変と国会開設の詔が煥発されたのを機に自由党を創設,総理に就任,以後全国を遊説して党勢拡張に努め,15年岐阜遭難事件では,負傷しながらも「板垣死すとも自由は死せず」と暴漢を叱咤したと世間に華々しく喧伝された。この年,外遊資金の出所疑惑で自由党は大混乱に陥ったが,欧州の憲政事情研究の名目で後藤とふたりで外遊。16年6月帰国。時に各地で過激な突出事件を起こし党の統制は混乱を極め,17年決断して自由党をいったん解党した。華族制度に批判的だったが,20年固辞しきれず伯爵を受爵。条約改正反対運動では伊藤内閣の政治姿勢を厳しく批判。22年2月,憲法発布され,議会開設は翌年に迫った。高知にいた退助は,愛国公党を再興して自由党再建を図る。23年旧自由党諸派は立憲自由党として結束,24年3月党名を自由党と改称,推されて総理に就任した。第2次伊藤内閣の内相に就任(1896)。31年,最初の政党内閣である憲政党大隈(隈板)内閣の内相を経歴,33年9月,立憲政友会の成立を機に政界を隠退した。晩年は清貧の生活を続けながら社会改良運動に専念。また39年「一代華族論」を公表して華族制度批判の意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退した。<著作>『板垣退助全集』<参考文献>板垣退助監修『自由党史』

(福地惇)

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「板垣退助」の解説

板垣 退助
イタガキ タイスケ


肩書
自由党総裁,内相

旧名・旧姓
別名=乾 退助(イヌイ タイスケ)

別名
幼名=猪之助 諱=正形 号=無形

生年月日
天保8年4月17日(1837年)

出生地
土佐国高知城下中島町(高知県高知市)

経歴
土佐藩士の出身。山内容堂の側用人、大監察などを歴任。慶応元年江戸で学び、3年中岡慎太郎と共に西郷隆盛と会見、討幕の密約を結ぶ。明治元年戊辰戦争で大隊司令・総督府参謀として会津攻略に活躍。この頃乾姓から先祖の旧姓板垣に復す。土佐藩大参事を経て、4年明治政府の参議となるが、6年征韓論争に敗れて下野。7年後藤象二郎、江藤新平らと東京で愛国公党を結成し、副島種臣らと「民撰議院設立建白書」を提出。また高知で立志社を設立して自由民権運動の口火を切る。14年国会開設が決まると自由党を結成し、その総理となる。15年外遊。17年自由党解党。20年伯爵(一代限り)。23年国会開催に伴い再び愛国公党を組織し、立憲自由党に合流、24年自由党に改組し総裁に就任。29年には第2次伊藤内閣の内相をつとめた。31年自由党・改進党が合流して憲政党を組織すると、大隈重信と隈板内閣(第1次大隈内閣)をつくり、内相に就任。33年憲政党を解散、立憲政友会に合流し、これを機に政界から引退した。晩年は社会事業などに尽力した。15年に岐阜で暴漢に襲われた際(岐阜遭難事件)の発言「板垣死するとも自由は死せず」は、民権運動の標語になった。著書に「武士道観」「板垣退助全集」がある。

没年月日
大正8年7月16日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「板垣退助」の解説

板垣退助
いたがきたいすけ

1837.4.17~1919.7.16

幕末~明治期の高知藩士・政治家。父は高知藩士乾正成。戊辰(ぼしん)戦争で功があり,賞典禄1000石,高知藩家老となる。維新後,高知藩大参事として親兵編成に尽くし,参議に就任,西郷隆盛らと留守政府を指導したが,征韓論争で敗れて下野(げや)。1874年(明治7)民撰議院設立を建白し,高知に立志社を設立して自由民権運動を開始した。運動の代表者として81年に自由党を結成,総理になり民権運動の拡大に努めた。82年岐阜の金華山麓の中教院で襲われ負傷,「板垣死すとも自由は死せず」の逸話を残す。87年伯爵。日清戦争後,第2次伊藤内閣と自由党の接近を指導し,内務大臣として入閣。98年大隈重信とともに組閣(隈板内閣)して再び内務大臣となる。1900年政友会創設を機に政界を引退し,晩年は社会改良運動に尽力。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「板垣退助」の解説

板垣退助 いたがき-たいすけ

1837-1919 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈(おおくま)重信と隈板(わいはん)内閣をつくり,内相。伯爵。33年政界を引退し,社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾(いぬい)。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)

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旺文社日本史事典 三訂版 「板垣退助」の解説

板垣退助
いたがきたいすけ

1837〜1919
明治時代の政治家
土佐藩出身。討幕運動に参加。1871年参議となったが,'73年征韓論に敗れて下野。後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を提出し,自由民権運動の口火を切った。以後立志社・愛国社を結成。'81年自由党総理,'90年立憲自由党総裁となり,のち第2次伊藤博文・隈板 (わいはん) 両内閣の内相を歴任。1900年立憲政友会成立を機に政界を退き,以後社会事業に尽くした。持論の「華族一代論」を実現したことは彼の面目を示している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「板垣退助」の意味・わかりやすい解説

板垣退助
いたがきたいすけ

[生]天保8(1837).4.17. 土佐
[没]1919.7.16. 東京
自由民権運動の指導者。伯爵。土佐藩主山内容堂を補佐して明治維新に参画。 1874年「民撰議院設立建白書」を提出し,藩閥政治を攻撃,自由民権論を主張した。 81年自由党を創設。 82年岐阜に遊説の際,刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる。

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世界大百科事典(旧版)内の板垣退助の言及

【愛国公党】より

…(1)自由民権政社。征韓論に敗れて下野した前参議板垣退助,後藤象二郎,副島種臣,江藤新平や政府高官の由利公正,岡本健三郎,小室信夫,古沢迂郎(滋)が新しい反政府運動を起こそうとして1874年1月12日に結成した。〈天の斯民を生ずるや,之に附与するに一定動かすべからざるの通議権理を以てす。…

【大阪会議】より

…1875年1月から2月に,大阪で開かれた政府指導層間の会談。征韓論による政府内部の対立のため,西郷隆盛,板垣退助らが下野し,次いで参議木戸孝允も台湾出兵などに反対してその職を辞した。こうして〈有司専制〉支配を固めて,政権の土台を確立しようとしていた参議・内務卿大久保利通の地位は孤立した。…

【自由党】より

…その過程で機関紙発行問題や主導権争いから,沼間守一ら東京嚶鳴社(おうめいしや)グループと九州派が参加を拒否するに至った。結局,役員選挙において総理板垣退助,副総理中島信行以下の党役員が決定し,自由党は正式に発足する。党の盟約には〈自由を拡充し,権利を保全し〉〈善良なる立憲政体を確立する〉ことがうたわれていた。…

※「板垣退助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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