近世の義民の代表者とされる人物。佐倉宗吾とも呼ばれる。しかし確実な史実は乏しい。生没年不詳。下総佐倉城主堀田正信が1660年(万治3)に改易になった事実があり,その当時領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたことは明らかである。また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。堀田氏は百五十回忌,二百回忌の法会も営み,惣五郎の子孫に5石の田を与えたりしている。これより先,惣五という農民が冤罪で処刑されてときどき祟(たたり)をする,先の堀田氏が滅びたのもそのためだということで,その霊を慰めるために将門山に祠を建てたといわれていた。その無実の罪の内容は不明確であるが,後の堀田氏がある程度信じたことは事実である。それが《地蔵堂通夜物語》などの小説によって肉付けされ,さらに1851年(嘉永4)には《東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)》という戯曲になって江戸中村座で上演され,堀田氏の苛斂誅求と惣五郎の直訴,処刑,祟が筋として定着した。幕末には農民一揆の鼓吹のために利用され,明治になると自由民権運動の先駆者とされるなど,社会史的意義はきわめて大きい。惣五郎を葬ったという成田市の東勝寺(宗吾霊堂)には多数の参詣者がある。
執筆者:児玉 幸多
惣五郎伝説は実録本《地蔵堂通夜物語》(宝暦以降に成立)もしくは講釈師石川一夢,初世一立斎文車らの《佐倉義民伝》によって,幕末期にかなり人口に膾炙(かいしや)した。くわえて歌舞伎劇に舞台化され,惣五郎像は当時の民衆のなかに定着。その背景には悲運に刑死したと伝えられる惣五郎一家鎮魂のための御霊(ごりよう)信仰(将門信仰)が結びつき,同時に百姓一揆の頻発する江戸後期の民衆心理が,惣五郎像の虚構化をさらにうながしたと見られる。歌舞伎の初演は1851年(嘉永4)8月中村座《東山桜荘子》(3世瀬川如皐作)で,役名は法令の規制により浅倉当吾とし,時代も足利氏の時期に設定,柳亭種彦の《偐紫(にせむらさき)田舎源氏》をないまぜにした28場に及ぶ,やや冗漫な長編だが,足利(徳川)家のけんらんたる大奥生活と疲弊した農村の対照が効果をあげ,歌舞伎史上最初の農民劇としても評価される。また当吾の怨霊が領主を苦しめる怪異劇としての側面も見落とせない。主演者4世市川小団次の好演もあって評判となり,江戸近在の農民が観劇するなどの盛況で3ヵ月のロングランとなった。53年には丸本に改作され《花雲(はなのくも)佐倉曙》として上演,さらに61年(文久1)8月守田座での再演では,《田舎源氏》の筋を抜き,河竹黙阿弥の手で〈仏光寺光然の祈り-入水〉の場を加筆した。明治に入ってからの惣五郎役は3世市川九蔵(7世団蔵)が継承,自由民権運動や各地の農民運動などの動きとの関連で,講談や《佐倉宗吾一代くどき》などの歌謡が流行したことも見のがせない。今日通行の歌舞伎脚本は黙阿弥以後に後人の手で改修され,さまざまな場どりで上演される。全編を通じ〈印旛沼の場〉の当吾(惣五郎)のために鎖を切って禁制の船を出す渡し守甚兵衛の義俠,〈子別れの場〉の妻子別離の悲劇,〈通天橋の場〉の直訴などが,アクチュアルな山場をなしている。大正・昭和期には初世中村吉右衛門,3世中村翫右衛門らの得意芸として演じられた。
執筆者:小池 章太郎
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生没年不詳。江戸前期の代表的義民。姓は木内、佐倉宗吾ともよばれる。下総(しもうさ)国印旛(いんば)郡公津(こうづ)村(千葉県成田市)の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、『地蔵堂通夜(じぞうどうつや)物語』や『堀田(ほった)騒動記』などの実録文芸に伝えられるだけである。それらによると、佐倉領主堀田正信(ほったまさのぶ)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)、ついで国家老に要求したが拒否され、江戸に出て藩邸に訴えても取り上げられず、惣代(そうだい)6人で老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎1人が将軍に直訴した(『通夜物語』は承応(じょうおう)2年=1653とし、『騒動記』は正保(しょうほう)1年=1644のこととする)。要求は実現されたものの、惣五郎夫妻と男子4人は死刑に処せられ、その祟(たた)りでやがて堀田家は断絶したという。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分26石余の記載があり、1715年(正徳5)成立の『総葉概録(そうようがいろく)』が堀田氏時代に「公津村の民総五罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵(ののし)りて死し、時々祟りを現わし、遂(つい)に堀田氏を滅す、因(より)て其(そ)の霊を祭りて一祠(し)を建て惣五宮と称す」という説を伝えているから、惣五郎の実在と処刑は否定しえない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高1石につき1斗2升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は、初期的であり、1776年(安永5)の『惣五摘趣(てきしゅ)物語』が惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定しえない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆(いっき)の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したとみるべきであろう。成田市の東勝寺境内に宗五霊堂や記念館などがある。
[林 基]
『児玉幸多著『佐倉惣五郎』(1958・吉川弘文館)』▽『青柳嘉忠著『研究史佐倉惣五郎』(1981・佐倉市文化財保護協会)』
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生没年不詳。江戸時代の義民。下総国佐倉藩領公津(こうづ)村の名主として,藩主堀田氏の苛政を東叡山社参途中の将軍へ直訴,苛政は撤廃されたが磔刑に処された。死後妻子への処刑を不満として怨霊となり,堀田氏にとりついて改易の要因をつくったとされるが,一揆の事実は確認できない。1750年代以降顕彰活動が活発化し,「地蔵堂通夜物語」などの物語が作られた。1851年(嘉永4)江戸で上演された「東山桜荘子」が評判になり,幕末~明治期にはさまざまな外題で上演され,全国にその物語が流布するとともに,義民の代表とみられるようになった。
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…下総国印旛郡公津台方村の名主佐倉宗吾(佐倉惣五郎)が,佐倉藩の重税の負担に苦しむ農民を代表して将軍に直訴,租税は軽減されたが宗吾夫妻は磔(はりつけ)にされたという話は,史料の不足から,事実の有無,その年代など,諸説紛々としているのが実情である。こうした宗吾伝説をもたらすのに,地方巡演を業としていた講釈師の存在を無視することはできない。…
…定められた手続を踏まず直接に上級の権力に訴え出ること。越訴(おつそ)も同義。近世初頭には,特別の事情がある場合の直目安(じきめやす)の提出が認められていたが,訴訟法の整備によって禁止された。しかし農民は,順法的な訴願で要求が通らなければ,少数の代表者か惣百姓がさまざまな形態の直訴行動を行った。これが一揆で,指導者は厳刑に処せられたが,訴願の趣旨は受け入れられる場合が少なくなく大きな成果をあげた。【深谷 克己】 江戸時代では,下総国印旛郡公津台方村の名主惣五郎が佐倉藩主堀田氏による収奪の実態を将軍に直訴し,妻子とともに処刑された事例や,上野国利根郡月夜野村の農民茂左衛門が沼田藩主真田氏の暴政を老中ならびに将軍に訴え出て,真田氏は改易となり,茂左衛門は捕らえられて死刑に処せられた磔茂左衛門の例などが有名である。…
…講釈の《佐倉義民伝》と,当時流行の草双紙《偐紫(にせむらさき)田舎源氏》(柳亭種彦作)の一部を採り入れて脚色したもの。領主織部(堀田氏)の悪政に苦しみ哀訴した農民が投獄されたので,浅倉当吾(佐倉惣五郎)は将軍への直訴を決意して故郷に向かい,甚兵衛の助力でわが家に帰り,妻子となごりを惜しむ。ふたたび上洛して将軍義政(徳川家綱)に直訴する。…
※「佐倉惣五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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