佐倉惣五郎(読み)さくらそうごろう

  • さくらそうごろう〔ソウゴラウ〕
  • 佐倉惣五郎 さくら-そうごろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

江戸時代前期の下総佐倉藩領 200村余の百姓一揆の指導者。通称宗吾本名木内惣五郎。江戸時代後期成立の『地蔵堂通夜物語』『佐倉義民伝』などの文献によれば,領主堀田氏の重税による農民窮状将軍 (家光,家綱など諸説あり) に直訴し,妻子とともに処刑されたという。この伝説は江戸時代の代表的義民伝説として前記の書などにより,また『東山桜荘子』などの芝居に仕組まれて,広く流布した。江戸時代においても農民の抵抗の象徴として扱われ,明治前期の自由民権運動ではその先駆者として取上げられた。近年惣五郎の名のある公津村の名寄帳 (なよせちょう) などが発見され,その実在説が有力となった。
新内節の曲名本名題『不断桜下総土産 (ふだんざくらしもうさみやげ) 』。安政3 (1856) 年作。下総佐倉の木内惣五郎が農民の窮状を幕府に直訴した事件は,歌舞伎人形芝居に脚色されたが,そのうち大坂の竹田芝居で嘉永5 (1852) 年に上演された義太夫節『花雲佐倉曙 (はなのくもさくらのあけぼの) 』を富士松魯中が新内節に移曲したもの。上下の2つの部分から成り,上は「惣五住家」で後難の及ばぬよう妻に離縁状を渡す場面,下は「子別れ」で子供たちとの悲痛な別れを描く。

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百科事典マイペディアの解説

江戸前期の下総(しもうさ)佐倉藩領下の義民。木内惣五郎,宗吾とも。彼の事跡を伝える史料は《地蔵堂通夜物語》(実録物)等すべて江戸後期のものであるが,それらによると,藩主堀田正信の重税に耐えかねて佐倉領200ヵ村の村民が郡奉行所・国家老に税の軽減を訴えたが拒否され,ついに惣五郎は将軍へ直訴に及んだため子ども4人とともに死刑に処せられたという。惣五郎非実在説もあるが,名主を務めたという公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市)の名寄帳に惣五郎という高持百がいたこと,1660年に正信が改易されていることなどから事実であった可能性は高い。なお,惣五郎を題材としたものに歌舞伎《東山桜荘子(さくらそうし)》(3世瀬川如皐(じょこう)作,1851年初演),講談《佐倉義民伝》がある。
→関連項目児玉幸多

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

?-1653? 江戸時代前期の農民。
下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)の公津(こうづ)村の名主。藩主堀田正信(まさのぶ)の重税にたえかね,農民を代表して将軍に直訴。租税は軽減されたが,承応(じょうおう)2年8月3日磔刑(たっけい)になったといわれる。惣五郎伝説は「地蔵堂通夜物語」「佐倉義民伝」や歌舞伎の上演などで著名となるが,その史実には不明の点がおおい。姓は木内。名は宗吾,惣吾とも。

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世界大百科事典 第2版の解説

近世の義民の代表者とされる人物。佐倉宗吾とも呼ばれる。しかし確実な史実は乏しい。生没年不詳。下総佐倉城主堀田正信が1660年(万治3)に改易になった事実があり,その当時領内の公津台方村に惣五郎という,かなり富裕な農民がいたことは明らかである。また正信の弟正盛の子孫正亮が1746年(延享3)に佐倉城主として入封して後,将門山に惣五郎をまつって口の明神と称し,1653年(承応2)8月4日に惣五郎とその男子4人が死んだとして,1752年(宝暦2)はその百回忌相当のため,口の明神を造営し,以後春秋に盛大な祭典を行った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

生没年不詳。江戸前期の代表的義民。姓は木内、佐倉宗吾ともよばれる。下総(しもうさ)国印旛(いんば)郡公津(こうづ)村(千葉県成田市)の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、『地蔵堂通夜(じぞうどうつや)物語』や『堀田(ほった)騒動記』などの実録文芸に伝えられるだけである。それらによると、佐倉領主堀田正信(ほったまさのぶ)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)、ついで国家老に要求したが拒否され、江戸に出て藩邸に訴えても取り上げられず、惣代(そうだい)6人で老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎1人が将軍に直訴した(『通夜物語』は承応(じょうおう)2年=1653とし、『騒動記』は正保(しょうほう)1年=1644のこととする)。要求は実現されたものの、惣五郎夫妻と男子4人は死刑に処せられ、その祟(たた)りでやがて堀田家は断絶したという。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分26石余の記載があり、1715年(正徳5)成立の『総葉概録(そうようがいろく)』が堀田氏時代に「公津村の民総五罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵(ののし)りて死し、時々祟りを現わし、遂(つい)に堀田氏を滅す、因(より)て其(そ)の霊を祭りて一祠(し)を建て惣五宮と称す」という説を伝えているから、惣五郎の実在と処刑は否定しえない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高1石につき1斗2升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は、初期的であり、1776年(安永5)の『惣五摘趣(てきしゅ)物語』が惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定しえない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆(いっき)の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したとみるべきであろう。成田市の東勝寺境内に宗五霊堂や記念館などがある。

[林 基]

『児玉幸多著『佐倉惣五郎』(1958・吉川弘文館)』『青柳嘉忠著『研究史佐倉惣五郎』(1981・佐倉市文化財保護協会)』

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

生没年不詳
江戸前期,下総(千葉県)佐倉藩領公津 (こうず) 村の名主で,200余村の百姓一揆の指導者
本名木内惣五郎。佐倉宗吾ともいう。領主堀田氏の重税に反対し将軍に直訴 (じきそ) し,妻子とともに処刑された。江戸時代の代表的義民として広く知られ,物語・歌舞伎・民謡に語り伝えられた。

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世界大百科事典内の佐倉惣五郎の言及

【佐倉義民伝】より

…下総国印旛郡公津台方村の名主佐倉宗吾(佐倉惣五郎)が,佐倉藩の重税の負担に苦しむ農民を代表して将軍に直訴,租税は軽減されたが宗吾夫妻は磔(はりつけ)にされたという話は,史料の不足から,事実の有無,その年代など,諸説紛々としているのが実情である。こうした宗吾伝説をもたらすのに,地方巡演を業としていた講釈師の存在を無視することはできない。…

【直訴】より

…定められた手続を踏まず直接に上級の権力に訴え出ること。越訴(おつそ)も同義。近世初頭には,特別の事情がある場合の直目安(じきめやす)の提出が認められていたが,訴訟法の整備によって禁止された。しかし農民は,順法的な訴願で要求が通らなければ,少数の代表者か惣百姓がさまざまな形態の直訴行動を行った。これが一揆で,指導者は厳刑に処せられたが,訴願の趣旨は受け入れられる場合が少なくなく大きな成果をあげた。【深谷 克己】 江戸時代では,下総国印旛郡公津台方村の名主惣五郎が佐倉藩主堀田氏による収奪の実態を将軍に直訴し,妻子とともに処刑された事例や,上野国利根郡月夜野村の農民茂左衛門が沼田藩主真田氏の暴政を老中ならびに将軍に訴え出て,真田氏は改易となり,茂左衛門は捕らえられて死刑に処せられた磔茂左衛門の例などが有名である。…

【東山桜荘子】より

…講釈の《佐倉義民伝》と,当時流行の草双紙《偐紫(にせむらさき)田舎源氏》(柳亭種彦作)の一部を採り入れて脚色したもの。領主織部(堀田氏)の悪政に苦しみ哀訴した農民が投獄されたので,浅倉当吾(佐倉惣五郎)は将軍への直訴を決意して故郷に向かい,甚兵衛の助力でわが家に帰り,妻子となごりを惜しむ。ふたたび上洛して将軍義政(徳川家綱)に直訴する。…

※「佐倉惣五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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