椋橋庄(読み)くらはしのしよう

日本歴史地名大系 「椋橋庄」の解説

椋橋庄
くらはしのしよう

猪名いな川と三国みくに(現神崎川)の合流する地点を中心にした摂関家領の庄園。倉橋とも書いた。一二世紀半ばにはすでに東西に分れていたが、東庄が成立当初の椋橋庄の地域と考えられ、豊島てしま郡に属し、西庄は川辺かわべ(現兵庫県)に属した。東庄の庄域は近世の豊島郡庄本しようもと村を中心に、島田しまだ村・野田のだ村・三屋さんや村・牛立うしだて村などの一帯に比定される。

永承三年(一〇四八)藤原頼通が高野山参詣のため山崎やまさき(現三島郡島本町)より大川(淀川)を下った際、椋橋庄と大江おおえ御厨(現東大阪市など)の夫が水手役を勤仕しており、一一世紀には摂関家領となっていた(「宇治関白高野山御参詣記」同年一〇月一一日条)。永長元年(一〇九六)には、当庄や垂水たるみ(現豊中市・吹田市など)の寄人らが公田を耕作しながら庄威を募って役夫工代物を弁済しないので、摂津国司がこれを訴えているが、そこには「小屋五家有倉橋御庄」とみえ(「中右記」同年一一月二七日条・一二月八日条)猪名川河口東岸の堆積地の小規模な庄園であったと考えられる。しかし、一二世紀には当庄の住人は猪名川を越えて川辺郡へも出作した。久寿三年(一一五六)同郡の東大寺領田を請作するたちばな(現兵庫県尼崎市)の寄人に対して出された下文に、請作する寄人は橘薗の寄人だけでなく、椋橋庄や長州ながす御厨(現同上)の供御人らがいるとあり、地子や五節供料を東大寺に沙汰するよう命じている(同年二月一一日「修理権大夫藤原某下文案」東大寺文書)。この東大寺領とは猪名庄(現尼崎市)のことらしく、応保二年(一一六二)には、猪名庄側が以前に築堤した際の絵図に基づき椋橋西庄の田地一六町九反余をとりこもうとしたため、椋橋西庄の庄司らは、東大寺領田は四町四反のみであり、その地子は寺家に弁済するが、公役は政所(摂関家政所か)に勤仕してきていると官使恒弘や猪名庄下司頼兼らの無道を訴えている(同年一一月一八日「摂津国椋橋西庄司等陳状案」東大寺文書)

これが椋橋西庄の初見であるが、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)によれば、椋橋東庄は寛元元年(一二四三)三月四日に近衛家実から兼経に分与されており、その肩書には「京極殿領」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報