椋橋西庄(読み)くらはしにしのしよう

日本歴史地名大系 「椋橋西庄」の解説

椋橋西庄
くらはしにしのしよう

猪名いな川・神崎かんざき川合流点付近に位置する庄園。摂津国川辺・豊島てしま両郡(現大阪府)にわたる摂関家領椋橋庄猪名川を境に東西に分れて成立した。江戸時代のうち村の旧名西倉橋にしくらはしを遺称とする。永承三年(一〇四八)藤原頼通の紀伊高野山参詣のおりに、摂津大江おおえ御厨(現大阪府東大阪市など)と同じく当庄の三〇人が水手として奉仕しているが(「宇治関白高野山御参詣記」同年一〇月一一日条)、仁平三年(一一五三)には椋橋東庄から屯食四具が摂関家に納められており(「台記別記」同年八月八日・一一月二九日条)、この頃には東・西に分立していた。

久寿三年(一一五六)頃には椋橋庄住人らが川辺郡内の奈良東大寺領田(猪名庄)に出作していた(同年二月一一日「修理権大夫藤原頼輔下文案」東大寺文書)。応保二年(一一六二)に同寺所司の奏請によって猪名庄の立券が行われたことから(同年五月一日「官宣旨」東南院文書)、椋橋西庄と猪名庄の間で田地の帰属をめぐる相論が引起されている。当庄下司らは猪名庄の下司藤原頼兼が以前はなかった堤を限る絵図を新たに作製して、たちばな御園と椋橋西庄の四至内の役田を猪名庄内押入れようとしているのに対し、問題となっている東大寺領田は当庄と橘御園との入組地で一円の所領ではなく、また猪名庄側が一一町余とも、あるいは一六町余とも称している同寺領田は四町四段であり、地子は寺家に弁済し、公役は政所に勤仕しているが、その他の田地は同寺領ではないと主張し、立券に派遣された官使中原経広と下司頼兼らの無実の訴えを止めるよう求めている(同年一一月一八日「椋橋西庄司等陳状案」東大寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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