椿原村(読み)つばきはらむら

日本歴史地名大系 「椿原村」の解説

椿原村
つばきはらむら

[現在地名]白川村椿原

白川街道沿いにうち村の北に続き、しよう川左岸にある。北方対岸の芦倉あしくら村、東方対岸の有家うけはら村とともに山家やまがとよばれる(斐太後風土記)。永正元年(一五〇四)開基の俗道場に本願寺証如が下した本尊裏書に「白川郷椿原村願主西円」とある。同一八年、河内こうち有道うとう(現久々野町)常光じようこう(現高山市に移転)へ本願寺実如が下した本尊裏書にも「白川椿原願主釈空西」とみえる。金森氏時代の高は二三石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳の高は一一石余、田一畝余・畑四町余。


椿原村
つばはらむら

[現在地名]黒木町笠原かさはら

北木屋きたごや村の北に位置し、笠原川が西流する。元中年間(一三八四―九二)と推定される四月一五日付の良成親王書状(五条家文書/史料纂集)によれば、後征西将軍宮良成親王は病状が長引く五条良遠を慰問し、「つはハら」の僧医を招き寄せるよう勧めている。天正一二年(一五八四)猫尾ねこお城落城の際、黒木氏家臣の椿原式部は大友側に寝返ったという。寛永一四年(一六三七)島原の乱に当村百姓数十人が出陣、乱後に島原領内に逃散する事件があり、久留米藩ではその帰村交渉に努めた(「間燕漫録」黒木町史)


椿原村
つばはらむら

[現在地名]宇土市椿原つばきはら

北は緑川(現浜戸川)、東は段原だんのはら村、南は宮荘みやのしよう村・馬場ばば村、西は下椿原しもつばはら村に接する。東・南・北は平坦で西は高低のある地形である。村の中央前田まえだ、西に居屋敷いやしき、南に仏園ほとけぞの北東古閑元こがのもと南西甲塚かぶとづかなどの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では、田方五八九石七斗余・畠方九七石六斗余。「国誌」に「松葉村寺尾村船津村和田村等ノ小村アリ」とあり、天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると、竈数四四・人数二一二・役男七七、本方高六八七石二斗余、田三五町三反一畝余・畑八町九反五畝余、新地田一町三反四畝余、諸開三反一畝余。


椿原村
つばきばるむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう椿原

黒塩くろしお村の東にあり、標高二〇〇メートル台の西斜面の丘陵の中央をはい川が西流する。慶長絵図に「椿原村 黒川ノ内」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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