改訂新版 世界大百科事典 「楠葉西忍」の意味・わかりやすい解説
楠葉西忍 (くすばさいにん)
生没年:1395-1486(応永2-文明18)
〈くずは〉とも読む。室町期の商人。幼名ムスル,俗名天次。父は3代将軍足利義満のとき来朝し,禅僧絶海中津のとりなしにより義満の扶持を受けた天竺の人ヒジリ,またの名〈唐人倉〉と称する者である。母は河内国楠葉の人。これにより楠葉を称した。4代義持のとき,将軍の意にそわず父とともに一色氏に預けられたが,父の死後許された。家督を弟に譲り,みずからは大和国平群郡立野に住した。興福寺大乗院門跡経覚につき入道し,西忍と名のる。立野氏の一族戌亥氏の女子を妻とし,また立野の地に田地を有し,立野衆と呼ばれる在地武士団の一員としての性格をも有する。1441年(嘉吉1)より没するまで大乗院坊人として奉公した。32年(永享4),53年(享徳2)の2度貿易船にて渡明した。とくに2度目の渡明に際しては,外官の資格で30余名の商人らを率いた。また一条兼良ら公家の和歌会にも列している。その息元次も大乗院坊人として金銭出納にたずさわった。
執筆者:村岡 幹生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報