極北の怪異(読み)きょくほくのかいい(その他表記)Nanook of the North

改訂新版 世界大百科事典 「極北の怪異」の意味・わかりやすい解説

極北の怪異 (きょくほくのかいい)
Nanook of the North

1922年製作のアメリカ映画。ロバート・フラハティ監督。映画史上初めて〈ドキュメンタリーフィルム(記録映画)〉と名付けられた画期的な名作。命名者は,〈ドキュメンタリーとは現実できごとを創造的に処理する映画である〉と定義した,イギリスカナダのドキュメンタリーの育ての親であり理論家であるジョン・グリアソンで,実際,ロケーションから生まれたストーリーのほうがシナリオによるストーリーよりも真実であり,自然の人間のほうが俳優よりも真実の演技を見せるというグリアソンの理論を証明した最初の作品であった。〈劇映画が空疎に見える真実の魅力〉と評されたこの長編記録映画の第1作によって,フラハティは〈ドキュメンタリー映画の父〉と呼ばれるまでに至る。ナヌックというエスキモーの男を主人公に,現地ロケでカナダ極北居住民族の生活風俗を描く(《極北のナヌック》という原題でも知られる)。イグルー(氷の家)は実際には小さすぎて内部撮影には使えず,映画のために特大のイグルーをつくったことなどからも明らかなように,全編単なる実写ではなく,《ドキュメンタリィ映画》の著者ポール・ローサが分析しているように,〈映画のために用いられた素材は現実の生活から撮影され,その存在を十分に理解してもらううえでのイメージの選択によって,実際に記録された“現実”となっている。つまり映画はリアリティ解釈,その特殊なドラマティゼーションとなり,単なる記録的叙述ではなくなる〉のである。47年,サウンド版に再編集され,今日見られるのはその版である。
ドキュメンタリー映画
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の極北の怪異の言及

【ドキュメンタリー映画】より


[ドキュメンタリーの父]
 映画の歴史は〈実写〉から始まり,1895‐96年ころから撮られ始めたニュース映画とは別に,1890年代の末期にはアメリカ,フランスその他の国で短編の実写映画がつくられ,1900年代に入ってアフリカの旅行記録やアルプスの登山記録もつくられた。12年にはイギリスのハーバート・G.ポンティングがロバート・スコットの南極探険隊に同行して1時間30分の記録映画《スコットの南極探険隊》を撮って反響を呼んだが(のち1933年には《南緯九十度》の題でまとめた),それらは〈紀行映画〉と呼ばれ,いわゆる〈ドキュメンタリー〉の先駆は,フラハティがエスキモーのきびしい日常生活のたたかいを描いた《極北の怪異》(1922)とされる。フラハティはハリウッドのメジャー会社パラマウントに注目されて《モアナ》を撮り,つづいてW・S・バン・ダイク監督の《南海の白影》(1928)とF.W.ムルナウ監督の《タブウ》(1931)という2本の〈劇映画〉に協力させられるが,ハリウッドの商業主義と折り合いがつかず,イギリスに渡り,プロデューサーのマイケル・バルコンに完全な自由をあたえられて,北アイルランドのアラン諸島の孤島できびしい自然とたたかう人間の生活を描いた《アランMan of Aran》(1934)をつくり,ドキュメンタリーの先駆的開拓者としての業績によって,〈ドキュメンタリーの父〉と評されるに至った。…

【フラハティ】より

…ミシガン州生れ。1910年から16年まで北カナダ鉄道の地理調査隊に加わり,13年にエスキモーの生活を撮影したフィルム(上映時間が17時間30分におよんだと伝えられている)がトロントで編集中に事故で焼失したのち,フランスのレビヨン毛皮商会から5万ドルの出資をえ,15ヵ月間エスキモーと生活を共にして自然とたたかう狩猟家族の姿を記録した《極北の怪異》(1922)をつくり,記録映画の新しい道を開いた。単なる〈実写映画〉とは異なるこの画期的な記録映画に初めて〈ドキュメンタリー映画〉の名が冠せられた(名付親はジョン・グリアソン)。…

※「極北の怪異」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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