パステルナーク(読み)ぱすてるなーく(英語表記)Борис Леонидович Пастернак/Boris Leonidovich Pasternak

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パステルナーク」の意味・わかりやすい解説

パステルナーク
ぱすてるなーく
Борис Леонидович Пастернак/Boris Leonidovich Pasternak
(1890―1960)

ロシア・ソ連の詩人、小説家。著名な画家レオニードLeonid Pasternak(1862―1945)を父に、ピアニストであるカウフマンRosalia Kaufmannを母としてモスクワの芸術的なユダヤ系の家庭に生まれる。初め作曲家を志しスクリャービンに師事したが、絶対音感のないことを知って挫折(ざせつ)、モスクワ大学の歴史・哲学部に学び、1912年ドイツのマールブルク大学に留学して新カント学派のコーエン(コーヘン)教授から文化哲学を講じられた。1914年、処女詩集『雪の中の双生児』を出し、詩集に序文を寄せたアセーエフらとともに穏健な未来派グループ「遠心力(ツェントリフーガ)」に属した。初期の詩にはブロークリルケの影響が強く、レールモントフチュッチェフらのロシアの哲学的詩人、同時代のマヤコフスキーらの存在が絶えず意識されている。第二詩集『堡塁(ほるい)を越えて』(1917)に続く詩集『わが妹――人生』(1922)は「1917年夏」の副題をもち、この時期の詩人の実らなかった恋愛体験が2月、10月の二つの革命の中間期の高揚した気分を背景に、自然、現実世界、人間の間の交感、融合感を軸として語られる。詩とは「一枚の木の葉を凍らせる夜、二羽のウグイスの果たし合い」と定義され、ことばの意味と転義、その音楽性を最大限に利用して、新しい比喩(ひゆ)の可能性を求めたパステルナーク独自の「連想」の詩法が、ここではもっとも明確に表れている。

 1920年代中期になると叙事的ジャンルへの傾斜が目だち始め、『高尚な病』(1922、改作1928)、『1905年』(1926)、『シュミット大尉』(1927)などの叙事詩では革命と個人の運命についての詩人の思索が語られた。この傾向は韻文体のロマン『スペクトルスキー』(1931)、それと主人公、テーマを同じくする散文の中編『物語』(1929)にもみられ、第一次世界大戦と革命の時代のロシア知識人の軌跡をたどったこれらの作品には後年の『ドクトル・ジバゴ』の原型がみいだされる。散文作品には、ほかに『アペレスの印』(1918)、『トゥーラからの手紙』(1922)、思春期の少女の外界への目覚めを描いた中編『リューベルスの少女時代』(1922)、『空路』(1924)などがあり、1931年には自伝的な散文『安全通行証』が書かれた。

 同じ1931年、最初の妻であった画家エウゲニヤ・ルリエとの9年間の結婚生活を解消、のちに再婚する愛人ジナイーダ・ネイガウスとカフカスに旅行。タビゼTitsian Tabidze(1893―1937)、ヤシビリPaolo Iashvili(1894/1895―1937)、チコバーニらのジョージアグルジア)の詩人たちと親交を結んだ。象徴的な題名をもつ詩集『第二の誕生』(1932)にはカフカスの雄大な自然への共感と新しい愛が、それまでの詩の難解さとは異なる明晰(めいせき)なことばで歌われている。1934年にはソ連作家大会で、1936年には作家同盟会議で発言し、1935年にはパリの文化擁護会議にソ連代表として参加するなど、1930年代中期までは公の場に出る機会も多かったが、1937、1938年以降の粛清時代には、翻訳をいわば「避難所」に選んだようで、『ハムレット』を皮切りに戦中・戦後にかけて『シェークスピア戯曲集』(1949)、ゲーテの『ファウスト』(1953)、『ジョージア詩人集』(1946)など数多くの名訳を残している。

 第二次世界大戦中に出版された詩集『早朝の列車にて』(1943)は平明な調子で貫かれ、続く『大地の広がり』(1945)には詩人の戦争体験が反映されている。1943年「作家隊」の一員として前線に従軍、ルポルタージュを残した。

 第二次世界大戦後は「ジダーノフ批判」以降の厳しい文学統制のもとで、彼は完全な沈黙に追い込まれ、スターリン死後の1954年ようやく『旗(ズナーミヤ)』誌に『長編「ドクトル・ジバゴ」からの詩編』が公表された。その後も個々の詩編が詩文集などに発表されたが、1957年『ドクトル・ジバゴ』がイタリアのフェルトリネリ社から国外出版され、翌1958年パステルナークにノーベル文学賞が授与されると、ソ連のマスコミは大々的な非難キャンペーンを組織し、作家同盟は彼を除名処分にした。意図に反して国際的な政治抗争の渦に巻き込まれた彼は受賞を辞退し、当時のフルシチョフ首相にあてて「ロシアを去ることは私には死にも等しい。どうかこの厳しい措置をとらぬようお願いする」と懇願しなければならなかった。国外追放は免れたものの、このときの心の痛手は大きく、1年半後、彼はモスクワ郊外の作家村ペレデルキノで寂しく息を引き取った。葬儀にはソルジェニツィンらも出席し、ソ連の文学愛好者のこの詩人への敬愛の情が示された。晩年の詩は思いのほか明るい調子の詩集『晴れようとき』にまとめられ、『自伝的エッセイ』とともに国外で公刊された(1957)。1985年にはソ連でも二巻選集が出て、『ドクトル・ジバゴ』を除くほとんどの作品が国内で日の目をみた。

[江川 卓]

『工藤幸雄訳『パステルナーク自伝』(1959・光文社)』『稲田定雄訳『世界の詩集18 パステルナーク詩集』(1972・角川書店)』『オリガ・イヴィンスカヤ著、工藤正広訳『パステルナーク 詩人の愛』(1982・新潮社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パステルナーク」の意味・わかりやすい解説

パステルナーク
Pasternak, Boris Leonidovich

[生]1890.2.10. モスクワ
[没]1960.5.30. ペレデルキノ
ソ連の詩人。ユダヤ系知識人の家庭に育ち,少年時代は音楽を志したが,1914年に処女詩集『雲の中の双生児』 Bliznets v tuchakhを発表し,同時に未来派グループ「遠心力」に加わって,抒情詩人としての道を歩みだした。『堡塁を越えて』 Poverkh bar'erov (1917) ,『わが姉妹はいのち』 Sestra moya-zhizn' (22) にも処女詩集同様,象徴主義の影響が濃い。 20年代後半には,叙事詩『シュミット大尉』 Leitenant Shmidt (26) ほかで第1次ロシア革命をうたった。 57年長編小説『ドクトル・ジバゴ』をイタリアで出版,58年度のノーベル文学賞に選ばれたが辞退,作家同盟から除名され,国際的な話題を呼んだ。ソビエト時代の最もすぐれた詩人の一人として死後その声価は高まるばかりである。

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