ロシア・ソ連の詩人、小説家。著名な画家レオニードLeonid Pasternak(1862―1945)を父に、ピアニストであるカウフマンRosalia Kaufmannを母としてモスクワの芸術的なユダヤ系の家庭に生まれる。初め作曲家を志しスクリャービンに師事したが、絶対音感のないことを知って挫折(ざせつ)、モスクワ大学の歴史・哲学部に学び、1912年ドイツのマールブルク大学に留学して新カント学派のコーエン(コーヘン)教授から文化哲学を講じられた。1914年、処女詩集『雪の中の双生児』を出し、詩集に序文を寄せたアセーエフらとともに穏健な未来派グループ「遠心力(ツェントリフーガ)」に属した。初期の詩にはブローク、リルケの影響が強く、レールモントフ、チュッチェフらのロシアの哲学的詩人、同時代のマヤコフスキーらの存在が絶えず意識されている。第二詩集『堡塁(ほるい)を越えて』(1917)に続く詩集『わが妹――人生』(1922)は「1917年夏」の副題をもち、この時期の詩人の実らなかった恋愛体験が2月、10月の二つの革命の中間期の高揚した気分を背景に、自然、現実世界、人間の間の交感、融合感を軸として語られる。詩とは「一枚の木の葉を凍らせる夜、二羽のウグイスの果たし合い」と定義され、ことばの意味と転義、その音楽性を最大限に利用して、新しい比喩(ひゆ)の可能性を求めたパステルナーク独自の「連想」の詩法が、ここではもっとも明確に表れている。
1920年代中期になると叙事的ジャンルへの傾斜が目だち始め、『高尚な病』(1922、改作1928)、『1905年』(1926)、『シュミット大尉』(1927)などの叙事詩では革命と個人の運命についての詩人の思索が語られた。この傾向は韻文体のロマン『スペクトルスキー』(1931)、それと主人公、テーマを同じくする散文の中編『物語』(1929)にもみられ、第一次世界大戦と革命の時代のロシア知識人の軌跡をたどったこれらの作品には後年の『ドクトル・ジバゴ』の原型がみいだされる。散文作品には、ほかに『アペレスの印』(1918)、『トゥーラからの手紙』(1922)、思春期の少女の外界への目覚めを描いた中編『リューベルスの少女時代』(1922)、『空路』(1924)などがあり、1931年には自伝的な散文『安全通行証』が書かれた。
同じ1931年、最初の妻であった画家エウゲニヤ・ルリエとの9年間の結婚生活を解消、のちに再婚する愛人ジナイーダ・ネイガウスとカフカスに旅行。タビゼTitsian Tabidze(1893―1937)、ヤシビリPaolo Iashvili(1894/1895―1937)、チコバーニらのジョージア(グルジア)の詩人たちと親交を結んだ。象徴的な題名をもつ詩集『第二の誕生』(1932)にはカフカスの雄大な自然への共感と新しい愛が、それまでの詩の難解さとは異なる明晰(めいせき)なことばで歌われている。1934年にはソ連作家大会で、1936年には作家同盟会議で発言し、1935年にはパリの文化擁護会議にソ連代表として参加するなど、1930年代中期までは公の場に出る機会も多かったが、1937、1938年以降の粛清時代には、翻訳をいわば「避難所」に選んだようで、『ハムレット』を皮切りに戦中・戦後にかけて『シェークスピア戯曲集』(1949)、ゲーテの『ファウスト』(1953)、『ジョージア詩人集』(1946)など数多くの名訳を残している。
第二次世界大戦中に出版された詩集『早朝の列車にて』(1943)は平明な調子で貫かれ、続く『大地の広がり』(1945)には詩人の戦争体験が反映されている。1943年「作家隊」の一員として前線に従軍、ルポルタージュを残した。
第二次世界大戦後は「ジダーノフ批判」以降の厳しい文学統制のもとで、彼は完全な沈黙に追い込まれ、スターリン死後の1954年ようやく『旗(ズナーミヤ)』誌に『長編「ドクトル・ジバゴ」からの詩編』が公表された。その後も個々の詩編が詩文集などに発表されたが、1957年『ドクトル・ジバゴ』がイタリアのフェルトリネリ社から国外出版され、翌1958年パステルナークにノーベル文学賞が授与されると、ソ連のマスコミは大々的な非難キャンペーンを組織し、作家同盟は彼を除名処分にした。意図に反して国際的な政治抗争の渦に巻き込まれた彼は受賞を辞退し、当時のフルシチョフ首相にあてて「ロシアを去ることは私には死にも等しい。どうかこの厳しい措置をとらぬようお願いする」と懇願しなければならなかった。国外追放は免れたものの、このときの心の痛手は大きく、1年半後、彼はモスクワ郊外の作家村ペレデルキノで寂しく息を引き取った。葬儀にはソルジェニツィンらも出席し、ソ連の文学愛好者のこの詩人への敬愛の情が示された。晩年の詩は思いのほか明るい調子の詩集『晴れようとき』にまとめられ、『自伝的エッセイ』とともに国外で公刊された(1957)。1985年にはソ連でも二巻選集が出て、『ドクトル・ジバゴ』を除くほとんどの作品が国内で日の目をみた。
[江川 卓]
『工藤幸雄訳『パステルナーク自伝』(1959・光文社)』▽『稲田定雄訳『世界の詩集18 パステルナーク詩集』(1972・角川書店)』▽『オリガ・イヴィンスカヤ著、工藤正広訳『パステルナーク 詩人の愛』(1982・新潮社)』
ソ連邦の詩人,作家。モスクワのユダヤ系芸術家の家に生まれる(父レオニードは著名な画家,母はピアニスト)。初めスクリャービンに師事して作曲家を志したが挫折し,モスクワ大学歴史・哲学科に学んだ。1912年ドイツのマールブルク大学に留学し,H.コーエンの哲学に影響を受けた。14年に処女詩集《雲の中の双生児》を出し,アセーエフ,ボブロフらと未来派グループ〈遠心分離機Tsentrifuga〉に加わった。レールモントフ,チュッチェフ,リルケへの傾倒と,ブロークの影響,マヤコーフスキーの存在への強い意識が初期から見られる。〈1917年夏〉の副題をもつ詩集《わが妹 人生》(1922)は,彼の独自の詩風を確立した世界現代詩の〈新しい言葉〉と評価された。そこでは詩人の内面と,ロシア革命期の外的現実,その双方を包みこむ自然が,それぞれに詩的主体として登場し,その交感と対話が,屈折したシンタクシスを通して表現される。〈巨大な庭は 部屋の姿見の中では居心地悪い,かといって--ガラスを割れはしない〉(《鏡》)といった詩風である。
1920年代に入ると,《シェーニャ・リューベルス》(1922),《空路》(1924)などの散文作品が書かれ,詩でも叙事的な志向が強まって,《高き病》(1924-28),《1905年》(1926),《シュミット大尉》(1927)などで,革命と個人の運命についての思索が語られる。韻文小説《スペクトルスキー》(1931)と,同名の人物を主人公にした散文《物語》(1929)は,後の《ドクトル・ジバゴ》(1954-56)の原形をなす。
1930年代の詩集《第二の誕生》(1932)は,一方で未来の空間への展望を歌いながら,同時に社会主義の〈おべっか使いどもの空言〉へのいらだちが語られる。34年の作家大会で,彼の詩がブハーリンに擁護されたことから,詩人の〈非政治性〉〈形式主義〉への政治的非難が強まり,その〈避難所〉として翻訳に力が注がれた。《グルジア詩人集》(1946),《ファウスト》《シェークスピア戯曲集》(ともに1953)は名訳として知られる。この間,43年の詩集《早朝の列車にて》に古典的明晰さへの転換が見られ,第2次世界大戦中は反ファシズム的な抵抗詩も書いたが,戦後はふたたび政治的批判にさらされ,ほとんど沈黙を守り,《ドクトル・ジバゴ》の創作に打ちこんだ。スターリン死後,ようやく創作意欲を取り戻し,詩集《心晴れるとき》(1956-59)では詩的精神の〈覚醒〉を歌ったが,58年,《ドクトル・ジバゴ》のノーベル賞受賞をめぐる政治的な嵐にまきこまれ,〈ロシアにとどまりたい〉という願いから受賞辞退に追い込まれた。2年後,不遇のうちにモスクワ郊外のペレジェルキノ村で死去した。
孤高・難解とされながら,熱烈な愛好者をもちつづけた彼の生涯は,自立した思想と芸術的相貌をもつ知識人がソ連でたどらなければならなかった悲劇的運命を象徴している。自伝に《安全通行証》(1931),《人と状況--自伝的エッセー》(1958)があり,《ドクトル・ジバゴ》のラーラのモデルとされるイビンスカヤ,詩人のボズネセンスキーらの回想録もある。
執筆者:江川 卓
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1890~1960
ソ連の詩人,作家。最初象徴主義の詩人として出発し,スターリン時代にはシェークスピアの翻訳などをしていた。ひそかに書いていた小説『ドクトル・ジバゴ』を国外で出版し,ノーベル賞を与えられたが,当局の圧力で辞退させられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
※「パステルナーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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