楽田村(読み)がくでんむら

日本歴史地名大系 「楽田村」の解説

楽田村
がくでんむら

[現在地名]犬山市野田のだ惣作そうさく若宮わかみや鶴池つるいけ天神てんじんなど

北は羽黒はぐろ村、東は二之宮にのみや村、南は春日井郡小松寺こまつじ村・久保一色くぼいしき(現小牧市)に接し、村域内を南北に木曾街道が通っている。天正一二年(一五八四)六月四日の佐竹義重宛羽柴秀吉書状写(諸将感状下知状并諸士状写)に「尾口羽黒・楽田と申三ケ所」とあるのが初見。「老人雑話」は「額田」と記し、ほかに「学伝」の異記もある。

小牧代官所(現小牧市)支配下の蔵入村。

楽田村
がくでんむら

[現在地名]大垣市楽田町・赤花町あかばなちよう坂下町さかしたちよう

揖斐いび川右岸の平坦地、大垣輪中の北部に位置し、南は貝曾根かいぞね村。北端を中山道が走る。仁治二年(一二四一)一月二〇日の東大寺別当定親吉書日記(薬師院文書)大井おおい庄三所の一つとして「楽田 和泉房」とみえる。文永九年(一二七二)一二月二八日の関東御教書案(東大寺図書館蔵)に「寺領美濃国大井庄内楽田郷」とみえ、東大寺衆徒の訴えにより重経法師の押領を停止し、同郷地頭職を停止する旨の下知案であることが記される。一四世紀中頃、源義用は重代相伝の地である楽田郷名田のうち一町二段を二五貫五〇〇文で(貞和三年一一月二六日「源義用売券」東大寺図書館蔵など)、沙弥正観は同郷内の三段を六貫文で売渡している(同年一二月一四日「沙弥正観売券」石崎文書)

楽田村
らくたむら

[現在地名]稲垣村豊川とよかわ

北東野末のすえ村、田圃を隔てて北は鶴見里つるみさと村、西は福富ふくとみ村・本増もとます村、南は豊川村。

高橋家由緒書(西津軽郡史)によれば、元禄二年(一六八九)に高橋太左衛門繁達が開拓したという。享保一二年(一七二七)には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文二年(一七三七)検地帳によれば、田畑屋敷合せて一五町九反四畝一歩、村高は九九・九二四石であった。うち田方は一二町四反八畝一六歩で九四・九九四石、上田から下々田まで設定され、上田が一町五反余、中田三町六反余、下々田二町九反余に対し、下田が四町三反八畝二〇歩、三〇・七〇七石とあり、畑方は三町四反五畝一五歩で四・九三石、下畑と下々畑のみで、下々畑が二町九反八畝一八歩、二・九八五石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報