日本歴史地名大系 「犬山市」の解説 犬山市いぬやまし 面積:七四・六一平方キロ県西北部に位置し、東は岐阜県可児(かに)郡・多治見(たじみ)市、北は木曾川を挟み岐阜県加茂(かも)郡と各務原(かがみはら)市、西は丹羽郡、南は小牧市に隣接する。市の二分の一以上を占める第三紀層の低山性丘陵が東部を北から南へ弓状に延び、この丘陵に接続し洪積台地が南北に形成されている。その西方には木曾川扇状地の沖積平野が展開する。犬山の地名は「李花集」に、<資料は省略されています>とみえる。「梅花無尽蔵」では「一日欲観飯山桜井飯山尾之北涯、桜井即鵜沼之勝」と飯山に表記している。〔原始・古代〕先土器時代より当地に人々が生活していたことは遺跡の出土品によって知られる。城東中学校近くの丘陵斜面の田口洞(たぐちぼら)遺跡からは剥片・掻器・石刃等、羽黒(はぐろ)西端の洪積台地の北屋敷(きたやしき)遺跡からは掻器・石刃・石刃核・細石刃・抉入石刃等、入鹿池(いるかいけ)遺跡からはナイフ形石器・尖頭器等が出土している。入鹿池遺跡からは縄文時代早期の石器・土器の破片も発見された。四郎丸(しろうまる)遺跡からは縄文時代中・後期、橋爪(はしづめ)遺跡からは晩期の出土品がみられ、時代とともに人々の生活が丘陵地から台地へと広がりをもったことがうかがえる。四郎丸遺跡からは弥生時代前期の土器・石器も出土し、弥生時代中期の井堀(いほり)遺跡からは炉跡が、中・後期の上野(かみの)遺跡からは炉跡・竪穴住居跡が土器・石器とともに発見される。大県(おおあがた)神社の裏山からは江戸末期に扁平鈕式四区袈裟襷文銅鐸が発見され、塔野地(とうのじ)字大畔(おおぐろ)からは尾北地方では珍しい銅鏃が出土している。四世紀後半には白山平(はくさんひら)の頂上に前方後方墳の東之宮(ひがしのみや)古墳が築造された。出土した銅鏡一一面のうち五面は三角縁神獣鏡である。また古式の碧玉製の鍬形石・合子等の出土は、その分布の東限を拡大したものとして注目される。五世紀初めに作られた全長九五メートルの前方後円墳の妙感寺(みようかんじ)古墳、全長七四メートルの前方後円墳の甲塚(かぶとづか)古墳、市の西南端に全長一二〇メートルの前方後円墳の青塚(あおつか)古墳がある。六世紀のものとして塔野地の熊野(くまの)古墳や入鹿池の十三塚(じゆうさんづか)古墳、七世紀にかけての上野古墳群等がある。市内に分布する古墳は約一三〇基を数え、四、五世紀の頃、当地方を統一していた強力な首長の拠点が犬山に置かれ、三角縁神獣鏡や精緻な合子に象徴される高い文化が導入されていたことが知られる。「日本書紀」安閑天皇二年五月の項に「置筑紫穂波屯倉・鎌屯倉、(中略)尾張国間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野国緑野屯倉、駿河国稚贄屯倉」とあり、六世紀前半には大和政権下に置かれていたと考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「犬山市」の意味・わかりやすい解説 犬山〔市〕いぬやま 愛知県北西部にある市。 1954年犬山町と楽田,羽黒,池野,城東の4村が合体し市制。江戸時代,尾張藩家老成瀬氏の城下町として発展。犬山城は室町時代の建築様式を伝え,国宝の三層の天守閣をもつ。城下を流れる木曾川の渓谷は,志賀重昂がドイツのライン峡谷になぞらえて「日本ライン」と命名。飛騨木曾川国定公園に属する。近年は紡織のほか,食品,金属,機械,電機工場の進出が目立つ。成田山別院,桃太郎神社,野猿公苑,猿類の生態を研究する日本モンキーセンターなどがあり,観光都市として有名。入鹿池のほとりには明治期の代表的建物を集めた明治村,今井地区には人間博物館リトルワールドがある。有楽園内の茶室如庵も国宝。東之宮古墳は史跡。名古屋鉄道小牧線,広見線,国道 41号線が通る。面積 74.90km2。人口 7万3090(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by