日本大百科全書(ニッポニカ) 「槇文彦」の意味・わかりやすい解説
槇文彦
まきふみひこ
(1928―2024)
建築家。東京生まれ。1952年(昭和27)、東京大学工学部建築学科を卒業。1953年にはアメリカ、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アーツの修士課程を修了、翌1954年ハーバード大学修士課程を修了する。1956年にはワシントン大学の準教授となり、1962年にハーバード大学の準教授となる。在米期間中、名古屋大学豊田(とよた)講堂の設計者に抜擢(ばってき)されて実施(1960)。この最初の仕事で1962年、日本建築学会作品賞を受賞。弱冠34歳、衝撃のデビューとなる。帰国した後、1965年、槇総合計画事務所を開設。1979年、東京大学工学部建築学科教授(~1989)。
世界デザイン会議(1960年、東京)が開催されたのを機に、都市計画家浅田孝(あさだたかし)(1921―1990)、建築評論家川添登(かわぞえのぼる)らによりメタボリズム・グループが結成され、1960年代に都市計画・建築に関する運動を展開するが、この運動に槇も参加。
その後、個人の設計事務所としては異例といえるほど多くの大規模公共建築の実施業務に恵まれるなど、輝かしく華々しい経歴と賞賛の一方で、槇の真骨頂ともいえる仕事はむしろ、約四半世紀にもわたって続けられた、東京・渋谷区の代官山ヒルサイドテラス(1969~1992)における、どちらかといえばじみな一連の仕事である。全6期にわたったこの仕事は、確実に周辺に対して働きかけ、地域全体を変質させた。施主と設計者との関係の一つの見本ともいえるような、理想的な共同作業の粘り強く続けられたプロジェクトである。
おもな受賞歴として、1984年藤沢市秋葉台(あきばだい)文化体育館で日本建築学会作品賞、1993年プリツカー賞、UIA(国際建築家連合)ゴールド・メダル、1999年世界文化賞。2001年(平成13)には、代官山ヒルサイドテラスの仕事が「現代都市における近代建築のあり方を追求した一連の創作活動による建築界への貢献」と評価され、この一連の仕事全体に対して日本建築学会大賞が与えられている。
そのほかの代表的な作品として、スパイラル(1985、東京都。レイノルズ賞)、京都国立近代美術館(1986)、幕張(まくはり)メッセ(1989、千葉県)、TEPIA(テピア)(機械産業記念館。1989、東京都)、東京体育館(1990)、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(1990~1994、神奈川県)、イエルバ・ブエナ・ガーデンズ芸術センター(1993、サンフランシスコ)、風の丘葬斎場(1997、大分県。村野藤吾賞)などがある。
[堀井義博 2019年2月18日]
『川添登編、菊竹清訓・川添登・大高正人・槇文彦・黒川紀章著『METABOLISM 1960』(1960・美術出版社)』▽『「槇文彦+槇総合計画事務所」(『SD』1979年6月号・鹿島出版会)』▽『『SD』編集部編『現代の建築家――槇文彦1 1965―1978』(1979・鹿島出版会)』▽『『SD』編集部編『現代の建築家――槇文彦2 1979―1986』(1987・鹿島出版会)』▽『『SD』編集部編『現代の建築家――槇文彦3 1987―1992』(1994・鹿島出版会)』▽『『SD』編集部編『現代の建築家――槇文彦4 1993―1999』(2001・鹿島出版会)』▽『槇文彦他著『見えがくれする都市――江戸から東京へ』(1980・鹿島出版会)』▽『『槇文彦建築ドローイング集――未完の形象』(1989・求龍堂)』▽『槇文彦他編著『ヒルサイドテラス白書 住まい学体系71』(1995・住まいの図書館出版局)』▽『ギャラリー・間企画・編集『槇文彦 建築という現在――現場からのリポート』(1996・TOTO出版)』▽『槇文彦著『記憶の形象――都市と建築の間で』上下(ちくま学芸文庫)』