建築家。大阪に生まれる。幼少時は上海(シャンハイ)の租界で過ごし、1921年(大正10)から愛媛県今治(いまばり)で暮らす。高校時代に哲学書や芸術書を読むうちに、ル・コルビュジエに傾倒し、建築家を志して東京帝国大学工学部建築学科に入学。一時は映画監督を目ざし、日本大学の芸術学部映画学科に在籍したこともある。学生時代マルクス主義に興味をいだくが、やがて離脱し、ル・コルビュジエやグロピウスらのモダニズムから影響を受ける。1938年(昭和13)大学卒業後は、ル・コルビュジエの教え子である前川国男の事務所に入り、1941年まで修業をした。翌1942年に発表された論文「MICHELANGELO頌(しょう)」では、ミケランジェロとル・コルビュジエを歴史の転換点において偉大なる創造力を発揮した建築家と位置づけ、自らがその後に続くという決意表明を行う。60年以上に及ぶ活動を通し、急成長する戦後日本という国家を背負い、各地にランドマークとなる印象的な建築を手がけた。また国際的に活躍する日本人建築家の先鞭(せんべん)をつけた。
1940年代の第二次世界大戦戦時下においてコンペに連勝し、建築家としてデビューする。いずれも1等を獲得した大東亜建設記念造営計画(1942)と在バンコク日本文化会館(1943)は、日本の伝統建築のモチーフをとり入れたモニュメンタルな造形であった。敗戦直後は、東京、前橋、呉(くれ)、稚内(わっかない)などの復興都市計画を行う。1946年に東京帝国大学助教授、1963年東京大学教授となり、1974年の停年退職まで東京大学にて教鞭(きょうべん)をとる。丹下の研究室からは、大谷幸夫(さちお)、浅田孝(1921―1990)、槇文彦(まきふみひこ)、磯崎新(いそざきあらた)、黒川紀章(きしょう)、谷口吉生(よしお)らの優秀な建築家が輩出した。1949年広島市主催の広島平和記念公園および記念館のコンペで1等に入賞。近代性・記念碑性・伝統性を巧みに融合した建築である。さらに都市的な仕掛けとして、原爆ドームに到達する強力な中心軸を設定し焼け野原となった爆心地に明快な秩序を与えた。
1950年代は数々の傑作を発表し、日本の近代建築を世界的なレベルに引き上げた。香川県庁舎(1958)は伊勢神宮や桂(かつら)離宮などを強く意識し、木造の柱梁(はしらはり)に現代的な再解釈を追求した作品である。しかし、1950年代なかばの伝統論争においては、丹下の繊細な「弥生(やよい)的なるもの」に対抗して提出された白井晟一(せいいち)の重厚な「縄文的なるもの」の概念に影響を受け、作風は変化した。1950年代後半は、旧草月会館(1958)や電通大阪支社(1960)など、厚い壁のデザインを行う。
1961年丹下健三・都市・建築設計研究所を開設し、1960年代は都市計画的な仕事を手がけるようになる。同年発表した「東京計画1960」は、高度経済成長期の社会に問いかけた壮大なビジョンであり、放射状に広がる西欧型の都市を否定し、東京湾へ帯状に成長する都市を提案した。この計画には若き日の磯崎や黒川も参加している。後に線状に延びる都市の構想を日本列島のスケールでも提案した。緻密(ちみつ)なこの計画は、1960年代における未来的な都市計画ブームに火をつけた。吊(つ)り構造に挑戦した東京オリンピックの国立屋内総合競技場(東京代々木体育館、1964)や、HP(双曲面)シェル構造の東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964)など、シンボリックかつ彫刻的な作品がある。
1970年、未来型の都市実験の総決算として大阪で開かれた日本万国博覧会の会場計画を担当した。しかしその後は次世代の建築家が台頭し、日本では目だった仕事がなくなる。かわりにマケドニア(現、北マケドニア共和国)のスコピエ都心再建計画(1966)やイタリアのボローニャ市北部開発計画(1984)をきっかけに、サウジアラビア、イラク、ネパール、シンガポールなど、中近東やアジアの大規模なプロジェクトに活動の舞台を移した。
1986年、記念碑性と装飾性をもつポスト・モダンによる新東京都庁舎のコンペに勝って日本の建築界に復帰した(1991完成)。そして1990年代以降も東京お台場のフジテレビ本社ビル(1996)など、精力的に作品を発表した。広島平和記念館の競技設計から約50年を経過した2002年(平成14)、原爆死没者追悼平和祈念館が開館した。公園の軸線や緑を邪魔しないよう、施設を地中に埋め、慰霊の空間を表現した。
イギリス王立建築家協会ロイヤル・ゴールドメダル(1965)、BCS(建築業協会)賞(1966)、アメリカ建築家協会ゴールドメダル(1966)、フランス文化選奨・ゴールドメダル(1967)、文化勲章(1980)、フランス芸術文化勲章コマンドール(1984)、イタリア共和国有功勲章グラン・オフィシエル(1984)、日本建築学会大賞(1986)、プリツカー賞(1987)、高松宮殿下記念世界文化賞・建築部門(1993)など数多くの賞を受賞。前記以外のおもな建築作品に、丹下健三邸(1953)、駿府(すんぷ)会館(1957、静岡市)、旧東京都庁舎(1957)、静岡新聞・静岡放送本社(1970)、シンガポールOUBセンター(1986)、横浜美術館(1989)などがある。
[五十嵐太郎]
『ワルター・グロピウス、丹下健三、石元泰博著『桂――日本建築における伝統と創造』(1960・造型社)』▽『『東京計画1960――その構造改革の提案』(1961・新建築社)』▽『『日本列島の将来像』(1966・講談社)』▽『丹下健三・川添登編著『現実と想像 丹下健三1946-1958』(1966・美術出版社)』▽『丹下健三・川添登編著『技術と人間 丹下健三+都市・建築設計研究所1955-1964』(1968・美術出版社)』▽『『人間と建築 デザインおぼえがき』『建築と都市 デザインおぼえがき』(ともに1970・彰国社)』▽『『建築と都市』(1975・世界文化社)』▽『『一本の鉛筆から』(1985・日本経済新聞社)』▽『丹下健三・都市・建築設計研究所編・刊『Kenzo Tange Associates Vol.1~3』(1987)』▽『丹下健三・藤森照信著『丹下健三』(2002・新建築社)』
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建築家。愛媛県今治市に生まれ,1938年東京大学を卒業。在学中はル・コルビュジエの建築に傾倒し,前川国男の事務所を経て大学院に戻り,46年東京大学助教授,63年教授となった(74年退官)。戦前は設計競技にたびたび入賞し,戦後《広島平和記念館》(1955)の設計で近代建築の旗手としてデビュー。日本的な意匠と構造の感覚を示した《香川県庁舎》(1958),《東京都庁舎》(1957)などによって日本の近代建築を海外に知らしめる。東京オリンピック大会に際して大胆なつり屋根構造の国立屋内総合競技場(代々木競技場。1964)を設計し,以後世界二十数ヵ国に設計活動の場を広げる。東京計画1960,大阪万国博会場マスター・プラン(1970),ボローニャ副都心計画,ナイジェリア新首都計画等,都市設計にも腕をふるう。構造を明快に視覚化する造形によって,日本の近代建築を確立し,世界の代表的建築家となった。東大退官後は設計に専念し,80年文化勲章を受ける。
執筆者:鈴木 博之
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…他方,アメリカのL.H.サリバンは〈形態は機能に従う〉といい,近代資本主義が建築に要求する経済性をとらえ,強い説得力を持って語り継がれた。その後の近代建築家も社会が要求する機能に常に関心を払い,たとえば丹下健三は〈美しきもののみ機能的である〉といい,アメリカのL.I.カーンは〈機能は形態を啓示する〉などさまざまな論の提示がなされている。機能主義は歴史様式に基づく建築から脱却するのに有力な論拠となったが,造形論理としてかならずしも十分でない。…
…37階)では無柱空間の事務室が作られた。日本では1921年の日本興業銀行で耐震壁が設けられ,その効果が2年後の関東大地震で実証されたが,コア構造の出現は丹下健三による58年の東京都庁舎まで待たなければならなかった。彼はさらに58年の香川県庁舎で坪井善勝の構造設計によって,より明快にコア構造を実現させた。…
…しかし63年7月26日またも大地震に見舞われ,町の中心部は壊滅,死者は1000人を超えた。現在は丹下健三の復興計画を下敷きにした近代都市に生まれ変わった。1873年にテッサロニキと,88年にはベオグラードと鉄道でつながり,第2次大戦後は空港も得ておおいに活気を呈している。…
※「丹下健三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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