檜物屋町(読み)ひものやちよう

日本歴史地名大系 「檜物屋町」の解説

檜物屋町
ひものやちよう

[現在地名]浜田京町きようまち大辻町おおつじちよう

浜田八町の一。かどつじ町の西に延びる東西町並で、西はつじ町に続き、南ははら町、北は原井はらい村に接する。浜田の特産品の一つであった曲物職人が居住していたので町名となったと伝える(浜田町史)。東西に七七間と六八間の二本の道が延びていた。町内には常盤屋ときわや小路などの小路があり、町屋敷・寺社・地方分が混在していた(天明元年「浜田町浦小路竪横間数改帳」浜田市立図書館蔵)。宝暦―明和年間(一七五一―七二)と推定される浜田城下町諸色申伝控(河上家文書)によると家数五五・竈数六一、天保七年(一八三六)の浜田御城下町諸事申伝帳(岩間家文書)では家数六七・竈数七三。


檜物屋町
ひものやちよう

[現在地名]高岡市川原本町かわらほんまち

中川原なかがわら町の東、東西に延びる両側町で、東端利屋とぎや町。本町で、前田利長の高岡在城中、新川にいかわ大場おおば(現富山市)から庄左衛門が移住、指物屋を始めたことから当初指物さしもの町と称したという。のち檜物屋町に改称(高岡町由緒聞書・高岡史料)。地元では今もシモナイチョウとよぶ。時割は二時八歩二厘。地子地六〇九歩三厘(不歩記)、明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千五五一坪八合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数五五(家数書上帳)。寛政一二年(一八〇〇)中川原町失火に類焼し全町四五軒を焼失、文政四年(一八二一)の高岡大火では六三軒焼失。


檜物屋町
ひものやまち

[現在地名]上越市なか町三丁目

上田端かみたばた町の北、西裏町にしうらまち通と東西路の交点上に位置し、北は下田端町。檜物師(指物曲師職人)が多く居住したことからこの名がある。天和期(一六八一―八四)の調では無役の町で、屋敷数二四、名主一人(頸城郡誌稿)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)によると井戸数二五、檜物屋一五人・湯屋一人が居住。


檜物屋町
ひものやまち

[現在地名]松山市本町ほんまち一丁目・大手町おおてまち一丁目

松山城下町の西部にあり、東側が城堀に面する片町。東西に通る紙屋かみや町によって北の本町と境する。町名は慶長年間(一五九六―一六一五)松山城下町設置とともにつくられたといい、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)に明記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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