水田村(読み)みずたむら

日本歴史地名大系 「水田村」の解説

水田村
みずたむら

[現在地名]筑後市水田

花宗はなむね川中流左岸に位置し、北から東は北島きたじま村、南は常用つねもち村。豊後別路が東西に通る。水田天満宮門前町が形成され、水田町と称された。正保四年(一六四七)の大小道之帳によると南酒見みなみさけみ(現大川市)から水田町まで二里三一町、水田町から福島ふくしま(現八女市)まで一里一九町。中世は水田庄の中心地で、南島みなみしま村あるいはほん村と称された。また同庄の坪付などに前牟田まえむた小塚こづか平石ひられいし汁蒲しりかま富田島とだしま鬼塚おにづかなど当地内の地名がみえる。応永二年(一三九五)六月二五日の大鳥居信栄寄進状(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)に「前牟田」がみえ、北水田庄内本村のうち同地にあった田地二反二丈などが高野道場(現八女市か)に寄進されている。前牟田は水田のうち西前牟田・上前牟田・中前牟田・下前牟田に比定される。文安五年(一四四八)の水田庄田地坪付(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)によれば「小つか前」に綿丸わたまる名の五反、「小つかの西」に九日田四反・冬の祭田三反・元かわらけ田一反二丈があったほか、「小つか」の屋敷付五反がある。「平れ石」(平石)には犬王丸いぬおうまる名の一反、小次郎丸こじろうまる名の二反三丈、「しりかま」には大三郎名の田一反一丈があったほか、折口おりぐちにあった三郎二郎丸さぶろうじろうまる名の田三丈に「号しりかま」と注記される。


水田村
みずたむら

[現在地名]土成町水田

成当なりとう村の西に位置し、村域は秋月あきづき村を南から包み込むような形をなす。南は八幡やわた(現市場町)、西は切幡きりはた(現同上)、北は浦池うらのいけ村。阿波郡に属し、古くは日吉ひよし村あるいは日好ひよし村と称したが、慶安三年(一六五〇)水田村に改称したという(「阿波郡風土記」土成町史)。中世は秋月庄に含まれたとみられ、秋月八幡宮(現市場町)の寛永一七年(一六四〇)の棟札に秋月五ヶ之庄のうちとして日吉とある。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に日吉とみえる。寛永七年の知行割符帳(蜂須賀家文書)には日好村とみえ、当村の一石余を児玉伝兵衛が知行。


水田村
すいたむら

[現在地名]小須戸町水田

小向こむかい村の南に連なる。中世護摩堂ごまどう(現南蒲原郡田上町)城主平賀氏の武将横山権之守が主家断絶後、湯川ゆがわ(現田上町)に帰農、のち当地に移住し開発したといい、千昌せんしよう(曹洞宗)再建も同人の力によるという。直江兼続被官河村彦左衛門から新津丹波守に宛てた年不詳の知行宛行状(新津市誌)に「蒲原郡金津之保」として八ヵ村のうちに水田村とある。慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に「弐百参拾四石八斗五升 水田村 小向村」とあり、同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)には「三斗 こんや 水田村けんかう」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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