水間村(読み)みずまむら

日本歴史地名大系 「水間村」の解説

水間村
みずまむら

[現在地名]美方町水間

神場かんば村の西にあり、北東は広井ひろい村。集落は矢田やだ川の右岸に発達し、南東の山間に枝村の猪谷いのたに(猪之谷)がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「ミつま」とみえ、当地には地名を名字とする水間殿や「神主殿」などが住し、正徳庵があった。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「水間、かんば村」とあり、神場村と合せて高一二〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図ではともに神場村の高に含まれて高付された。

水間村
みまむら

[現在地名]奈良市水間町

水間峠東方、大保おおぼ村の南にある。天喜四年(一〇五六)一二月一六日の東大寺政所下文案(東南院文書)に「新薬師寺杣水間松尾庄」、永久三年(一一一五)一二月六日の東大寺修理所下文案(東大寺図書館所蔵文書)に「水間杣」とあり、治承四年(一一八〇)六月一八日の僧相兼田畠処分状(京都大学蔵東大寺文書)には「水間郷内字牛打」の地名がみえる。「多聞院日記」天文二年(一五三三)六月一日条に「旧記云 乾脇願主山田宗晴 山田二騎・長谷一騎・水間一騎・中屋一騎・以上五騎乾脇」とある。

水間村
みずまむら

[現在地名]貝塚市水間

三松みつまつ村の南にある南郡の村。蕎原そぶら村から流出する蕎原川と、大川おおかわ村・秬谷きびたに村から流出する大川(秬谷川)が、当村中央部で合流し、近木こぎ(水間川)となって北流しており、村名もこの地勢によるとみられる。木島きのしま谷五ヵ村の最上流部に位置し、貝塚寺内から南進する水間街道は、当村からさらに山間部へ通じている。行基開創という古刹水間寺がある。文明一六年(一四八四)九月五日、紀伊粉河こかわ(現和歌山県那賀郡粉河町)根来ねごろ(現同郡岩出町)衆徒木島谷に発向し、粉河勢が水間城を攻め落したという(粉河寺旧記)。また天正一三年(一五八五)三月には豊臣秀吉によって水間寺が焼失している。慶長九年(一六〇四)木嶋谷水間村検地帳(東京大学史料編纂所蔵)では村高は二七三石余、荒高を引いた毛付高は二六三石余で、うち畑は三一石余。

水間村
みずまむら

[現在地名]舞鶴市字水間

中山なかやま村の北東に接し、由良川右岸の谷あいに立地舞鶴湾(西湾)沿いの吉田よしだ村との間に古くから交通路が開かれていた。

慶長検地郷村帳に高三六四・〇八石「水間村」とみえ、土目録でも高は変化せず、内訳は田方二九〇石余、畑方七三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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