朝日日本歴史人物事典 「水間沾徳」の解説
水間沾徳
生年:寛文2(1662)
江戸初期の俳人。はじめ門田氏,のち水間氏。名は友兼。別号に沾葉,合歓堂がある。江戸の人。はじめ岸本調和門の福田調也(のちの露言)に師事し,随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく,延宝期には風虎嫡男の露沾から1字をもらい沾葉と号した。以後,露言と共に調和系の俳書に入集していく。このころ同藩邸の常連であった山口素堂の手引きで林家に入門,かつ山本春正,清水宗川に歌学を学び,原安適とも親交を結んだ。やがて内藤家の内紛を経て風虎他界(1685)におよび退いて法体になる。貞享4(1687)年ごろ,沾徳と改めて立机。以後,調和から離れて,素堂を介して蕉門に親しみ,榎本其角と末長く提携する。元禄5(1692)年には露沾の委嘱により,処女選集『俳林一字幽蘭集』を刊行した。やがて宗匠として内藤家の禄を食み,諏訪闡幽,大村蘭台らの大名を顧客とした。松尾芭蕉他界後,其角・沾徳両門の交流しげく,江戸俳壇の主流を形成した。両点者の俳風は洒落風と称されて時流をリードしたが,前句付にはほとんど関与していない。ここが他点者と一線を画した点である。其角没後は,江戸俳壇の諸派を糾合して,大宗匠と仰がれるに至る。<参考文献>潁原退蔵「享保俳諧の三中心」(『潁原退蔵著作集』4巻),白石悌三「水間沾徳年譜」(『連歌俳諧研究』19号)
(楠元六男)
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