内藤露沾(読み)ないとうろせん

精選版 日本国語大辞典 「内藤露沾」の意味・読み・例文・類語

ないとう‐ろせん【内藤露沾】

  1. 江戸前期の俳人。江戸の人。陸奥国福島県磐城平藩藩主内藤左京大夫義泰(俳号風虎)の二男。名は義英、のち政栄。別号傍池亭、遊園堂。宗因門。門下沾徳、沾涼、露言など。著に「露沾俳諧集」がある。明暦元~享保一八年(一六五五‐一七三三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「内藤露沾」の意味・わかりやすい解説

内藤露沾
ないとうろせん

[生]明暦1(1655).5.1. 江戸
[没]享保18(1733).9.14. 磐城
江戸時代中期の俳人。磐城平藩主内藤義泰 (内藤風虎 ) の次男。名,義英,のち政栄。嗣として藩主となるはずのところ,讒言により天和2 (1682) 年廃嫡となり,以後は風流をもっぱらとした。和歌を武者小路実蔭に学び,俳諧は宗因門であるが,父の薫陶を受け,季吟,芭蕉,其角らと交遊があった。門人水間沾徳菊岡沾凉らがいる。歌集『露沾公詠草』。

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朝日日本歴史人物事典 「内藤露沾」の解説

内藤露沾

没年:享保18.9.14(1733.10.21)
生年:明暦1.5.1(1655.6.5)
江戸前・中期の俳人。磐城平藩(福島県いわき市)藩主,内藤風虎の次男。幼名は五郎四郎義英,のち政栄。別号に傍池亭,遊園堂。兄他界のため家督を継ぐ立場にたつが,お家騒動にまきこまれて,天和2(1682)年病気を理由に退身。早くから俳諧に親しみ風虎サロンの若亭主として活躍するが,退身後は江戸蕉門とも交流した。麻布六本木の自邸で月次興行を催すなど,風流三昧の生活を送る。福田露言,水間沾徳,菊岡沾涼らはその門人(『綾錦』)。<参考文献>岡田利兵衛「内藤風虎,内藤露沾」(明治書院『俳句講座』2巻)

(楠元六男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤露沾」の解説

内藤露沾 ないとう-ろせん

1655-1733 江戸時代前期-中期の俳人。
明暦元年5月1日生まれ。陸奥(むつ)平藩主内藤義概(よしむね)の次男。兄の死去世継ぎになったが,天和(てんな)2年辞退。江戸麻布の自邸で月次俳諧(つきなみはいかい)をもよおし,水間沾徳(みずま-せんとく)らをそだてる。松尾芭蕉とも親交があった。享保(きょうほう)18年9月14日死去。79歳。名は義英,政栄。別号に傍池亭,遊園堂。
【格言など】鎌倉の僧こととはん冬の海(「続虚栗」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「内藤露沾」の意味・わかりやすい解説

内藤露沾
ないとうろせん

露沾

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世界大百科事典(旧版)内の内藤露沾の言及

【露沾】より

…江戸前~中期の俳人。姓は内藤,幼名は五郎四郎,名は義英,のち政栄。奥州磐城平7万石内藤義泰(俳号風虎)の次男で,下野守に任じられたが28歳で退身した。貞門時代,18歳で《桜川》に45句入集,のち蕉門に近づき,他の多くの俳人とも交わった。《笈(おい)の小文》に旅立つ芭蕉に,〈時は冬吉野をこめん旅のつと〉の句を送ったりした。著作に《倉の衆》《露沾公詠草》がある。〈むくつけき海鼠(なまこ)ぞ動く朝渚〉(《其帒》)。…

※「内藤露沾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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