永井隆(読み)ながい たかし

共同通信ニュース用語解説 「永井隆」の解説

永井隆

永井隆ながい・たかし 1908年、島根県生まれ。卒業した長崎医科大(現長崎大医学部)で医師として勤務中に被爆。妻を亡くし、自らも重傷を負ったが、負傷者救護に努めた。白血病と闘いながら2畳の住まい「如己にょこ堂」で執筆活動に励み、51年に43歳で死去した。原爆で壊滅的な被害を受けた長崎の街並みや、犠牲となった同僚や市民の様子、平和への思いをつづった随筆「長崎の鐘」は49年に発刊され、ベストセラーに。後に、英語やスペイン語、ロシア語などにも翻訳された。

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20世紀日本人名事典 「永井隆」の解説

永井 隆
ナガイ タカシ

昭和期の放射線医学者 長崎医科大学教授。 「長崎の鐘」の著者。



生年
明治41(1908)年2月3日

没年
昭和26(1951)年5月1日

出生地
島根県松江市

別名
洗礼名=ポーロ

学歴〔年〕
長崎医科大学(現・長崎大学医学部)〔昭和7年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔昭和19年〕

主な受賞名〔年〕
長崎市名誉市民〔昭和24年〕

経歴
昭和7年長崎医科大学卒業後、同大物理的疫法科に勤務、放射線医学を専攻した。9年結婚し、カトリックの洗礼を受ける。その後軍医となり、12年から15年まで中国各地を転戦。15年長崎医科大学助教授・放射線科長。20年6月職業病でもあるレントゲンの大量照射による慢性骨髄性白血病のため余命3年、と診断された。その直後の8月9日長崎原爆で被爆して重傷を負い、妻は爆死。21年1月長崎医科大学教授に就任したが、間もなく病床に伏し、闘病生活の中23、24年にかけて「ロザリオの鎖」「この子を残して」「長崎の鐘」「花咲く丘」などを相次いで出版。「この子を残して」はベストセラーとなり、「長崎の鐘」は松竹により映画化された。原爆の理解のために多くの現認記録を残し、被爆者の救護、浦上天主堂の再建に尽力。天主堂近くのわずか1坪のトタン屋根の小屋・如己堂に住んでいたため“浦上の聖者”と呼ばれ、死去に際しては、長崎名誉市民として長崎市公葬が行われた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永井隆」の解説

永井隆 ながい-たかし

1908-1951 昭和時代の医学者。
明治41年2月3日生まれ。母校長崎医大の物療科部長のとき放射線障害をおう。さらに昭和20年8月9日の原爆で被爆するが,負傷者を救護。21年教授。カトリック教徒として原爆廃止をいのり,病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述した。昭和26年5月1日死去。43歳。島根県出身。
【格言など】白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん(辞世)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「永井隆」の意味・わかりやすい解説

永井隆【ながいたかし】

医学者。島根県生れ。長崎医大卒業,1940年同助教授となり,レントゲン科の責任者。1945年5月ころから放射線障害が現れ始め,8月9日原爆投下で夫人が死亡,自身も放射能による骨髄障害を受けた。闘病生活を送りながら原爆症患者を治療,カトリック信者としての生活記録《長崎の鐘》《この子を残して》などを著す。

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367日誕生日大事典 「永井隆」の解説

永井 隆 (ながい たかし)

生年月日:1908年2月3日
昭和時代の放射線医学者。長崎医科大学教授
1951年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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