カトリック浦上教会(長崎市)の聖堂。江戸から明治時代の禁教下、キリシタンが多く住む浦上地区では、信徒の摘発が繰り返された。1873年に禁教が解かれた後、流罪から帰還した信徒らが聖堂を建立。1925年に二つの鐘楼が完成した旧天主堂は「東洋一の教会」と呼ばれた。45年8月9日の原爆投下で、爆心地から約500メートルにあった旧天主堂は倒壊し、浦上教会の信徒約1万2千人のうち約8500人が亡くなったとされる。今の天主堂は59年に再建された。
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長崎市本尾町のカトリック教会堂。浦上キリシタンの歴史は迫害の歴史でもある。1790年(寛政2)の浦上一番崩れより、1867年(慶応3)の四番崩れまで4回の迫害を経験した。最後の四番崩れにおいては、浦上全村民3394人が西日本を中心とする20藩にお預けとなり、644人が殉教した。1873年(明治6)信教の自由が認められ、1883人が浦上へ戻った。80年、これらの信徒は、庄屋屋敷跡を買い取り、仮聖堂とした。この屋敷は、1857年(安政4)まで踏絵が行われたつらい思い出の地でもあった。95年フレノ師の設計により石とれんが造りのロマネスク式大聖堂の建築が開始され、その仕事はラゲ師に引き継がれ、信徒たちの大きな努力によって20年後の1914年(大正3)に完成した。45年(昭和20)8月9日原爆により全壊し、2人の神父のほか、浦上教会地区1万2000人の信徒のうち8500人が死亡した。59年再建され、81年には歴史的なローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問が実現した。司教座聖堂。
[宮崎賢太郎]
『浜口庄八監修、片岡千鶴子解説『浦上天主堂改装記念誌』(1981・浦上カトリック教会)』▽『村松貞次郎・片岡弥吉監修『長崎の天主堂』(1977・技報堂出版)』
長崎市北部の浦上にあるキリスト教の聖堂。潜伏キリシタンの多かった浦上に1895年(明治28)司祭P.T.フレノーの設計により建設した会堂で,天主堂の高塔を含めた全体の完成は1925年(大正14)。ロマネスク建築として知られた。45年(昭和20)8月の原爆投下で倒壊したが,59年に再建された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…近世のキリシタン弾圧(浦上崩れ)下にあっても信仰を棄てなかった潜伏キリシタンが,長崎では浦上地域に多かった。再三の迫害に耐えた浦上キリシタンは,信仰の中心,浦上天主堂を30年の歳月を要して1925年完成した。第2次世界大戦中,三菱重工の製鋼所,下請工場が集中していたが,45年8月9日の原爆投下によって浦上は完全に焦土と化し,天主堂も焼失した。…
※「浦上天主堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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