日本歴史地名大系 「永原町」の解説 永原町ながはらちよう 京都市:下京区豊園学区永原町下京区柳馬場通綾小路下ル南北に通る柳馬場(やなぎのばんば)通(旧万里小路)を挟む両側町。平安京の条坊では町の西側が左京五条四坊二保六町東、東側は同三保一一町の西。平安時代中期以降は綾小路万里小路南の地。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「永原町」とみえ、慶安五年(一六五二)平安城東西南北町並之図では「長原町」、また、貞享五年(一六八八)新板平安城並洛外之図では「水はし丁」とみえるが、以後は永(長)原町で統一される。「坊目誌」所収の永原町文書によれば「又市家之事、依為闕所銀子四百五拾目仁当町中江売渡訖。 永原町ながはらちよう 滋賀県:近江八幡市八幡町永原町[現在地名]近江八幡市永原町元(ながはらちようもと)・永原町中(ながはらちようなか)・永原町上(ながはらちようかみ)玉屋(たまや)町の南、仲屋町(すわいちよう)通の一筋東(東から数えて三筋目)の永原町通に沿う縦町で、両側町。北は大杉町(おおすぎちよう)通、南は上筋(かみすじ)通を限り、北から永原町元・永原町中・永原町上の三町からなる。東は江南(えなみ)町・博労(ばくろう)町。八幡城下形成時に安土城下永原町から住民を移住させて成立した町と伝える(八幡町史)。元禄期(一六八八―一七〇四)以降の畑屋敷高は永原町元が六石余、永原町中が九石余、永原町上が一二石余(「八幡町屋敷畑高覚帳」近江八幡市共有文書)。宝永四年(一七〇七)頃には一七軒が蚊帳の製造内職にあたっていた(「織屋組合帳」西川文書)。 永原町ながらまち 滋賀県:甲賀郡水口町水口宿永原町[現在地名]水口町本町(ほんまち)一丁目・神明(しんめい)中島(なかじま)町の東、南裏通を挟んだ両側町。西端を南北に伊賀街道が通る。北は夷(えびす)町と接し、南には畑地が広がる。延宝七年地子赦免帳では居屋敷一五・明屋敷一・番屋敷一、屋敷地の間口は最大一九間二尺余・最小五間二尺余。また文久二年書上では居家一三・明家三・明地二で、居家の内訳は百姓一〇・左官一・紺屋一・神職一で農家中心の町であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by