寝具の一種。蚊屋、蚊蟵とも書く。カを防いで安全に睡眠ができるように、夜具を敷いた上に吊(つ)って用いる。材料は、涼感のある麻を、ざっくりと織ってあるのが普通であるが、絹、木綿製のものもある。色はだいたいが萌黄(もえぎ)であるが、水色にしたり、浅葱(あさぎ)にしたり、ぼかしにするものもある。蚊帳の大きさは、寝室の大きさにあわせてつくるのが普通で、大ぜいの人が大きな部屋で寝る場合には、蚊帳を吊るためのたくさんの乳(ち)(紐(ひも)を通す小輪)が必要となる。部屋の四隅には、長押(なげし)や、鴨居(かもい)あるいは柱に曲がった釘(くぎ)を打ち、これに蚊帳の吊り紐(丸打ちの組み紐)の先につけた丸環をかけて、吊る。大きく横に長いものは、途中でたるまないよう、乳を利用して鴨居と連結する必要が生じる。
蚊帳は、『日本書紀』や『延喜式(えんぎしき)』などの記述によると、中国から伝えられたものと推察される。絵画として、蚊帳を吊って寝ている姿は、鎌倉中期につくられた絵巻物の『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』に描かれているものが最古である。蚊帳を吊った寝室には老僧が寝て、侍女は御簾(みす)の下に上半身を入れ、縁には虫を集める灯台が置かれ、庭にはユウガオが咲き乱れているという構図である。しかし室町時代の絵巻物には、蚊帳を吊っている構図はみられない。いずれにしても高貴な身分の人たちの間で用いられていたことが推測される。
庶民の間で蚊帳が用いられたのは江戸時代に入ってからである。それ以前には蚊遣(かやり)が用いられ、農民の間では刈り草を干したものを寝る前にたいて虫を追い払ったりした。滑稽本(こっけいぼん)には神楽(かぐら)面をかぶって鯉幟(こいのぼり)の中に入って寝る話がある。蚊帳を吊ったり、取り外したりするには手間がかかるところから、民間では乳を竹竿(たけざお)に通して用いる紙帳(しちょう)が使われた。江戸時代の蚊帳の産地は、近江(おうみ)(滋賀県)と奈良が有名で、蚊帳売りの姿は山東京伝の『四時交加』にみえている。乳幼児用には母衣(ほろ)蚊帳があり、これは戦国時代から、武士が矢を防ぐために背負った母衣から考案されたもので、割り竹を半円形に曲げて、扇のようにかなめで留め、その骨の上に蚊帳と同じ布帛(ふはく)を張る。これを使うときは広げ、ふだんは折り畳んでしまっておく。この絵が式亭三馬の『人間万事虚誕計(うそばっかり)』のなかにみられる。このほか、中国で多く用いられる天吊りのついた円形の枠のある寝台用の蚊帳もある。蚊帳の形態が大きく変わったのは、大正年代に入って、縫い目なしのものができてからである。いずれにせよ、第二次世界大戦中までは夏の必需品として用いられた。しかし近年は、クーラー、扇風機の発達、これに加えて網戸の普及と除虫剤の発達などにより、蚊帳を吊ることが少なくなった。
[遠藤 武]
蚊帳に関する民俗・俗信はさまざまある。蚊帳は古くは竹棹(たけざお)を四隅に立て、これに下げ、昼間は端に片寄せておいたものなので、吉日を選んで吊り始め、また収められた。この習俗は今日でも行われ、ことに五月蚊帳は吊るものではないなどといわれている。9月になると蚊帳の四隅に雁(かり)を書いてつけることが行われ、蚊の入らぬまじないとした。また蚊帳を雷よけとして吊ることは、広く各地に行われたが、葬式のときに一隅を外した三隅(みすみ)蚊帳の中に棺を安置する風などもある。これは略式の喪屋(もや)の形とみられ、平常はこれを行うことを忌む所が多い。また、かつて一枚の蚊帳をつくることは、主婦にとって男が一代に家を建てることに匹敵する大仕事とされ、長男の蚊帳をつくるまでは母親の責任を果たしていないなどといわれた。蚊帳は1日に縫い上げないと凶事がおこるとされ、大ぜいの女たちの協力で縫い上げると、その蚊帳を吊って、その中で女だけの酒盛りをしたり、餅(もち)を食べて祝った。これを「蚊帳祝い」「蚊帳祭り」「蚊帳仕立て」「蚊帳仕立て祝い」「仕立て祝い」などとよんでいた。この際、熊本県玉名郡では、蚊帳の中に挽臼(ひきうす)とネコとを入れ、ネコの頭を打って鳴かせてから出さねばならないといい、これを「蚊帳の棟(むね)上げ」といった。なお「蚊帳(かちょう)の祝儀」とよばれる嫁入り蚊帳の新調祝いも、江戸時代にはたいせつな行事として各地に行われた。このほか、福井県南条郡には盆に2、3人の男子が蚊帳をかぶり、踊りをしている女を追い回す「蚊帳かぶり」の風習や、広島県因島(いんのしま)には6月23日、一晩中蚊帳に入らずに語り明かす「蚊帳待ち」の習俗などがある。
これらの民俗からは、蚊帳を単なる寝具と考えるだけでなく、呪力(じゅりょく)をもつ神聖なものとする意識があったことがうかがわれる。
[宮本瑞夫]
『喜多川守貞著『類聚近世風俗志』(1934・更生閣)』▽『小川光暢著『日本の寝具』(1962・旭繊維具研究会)』▽『三島おさむ著『どうぞ蚊帳の中へ 21世紀によみがえる不思議空間』(2003・本の風景社、ブッキング発売)』
蚊を防ぐため寝室などにつる覆い帳。蚊屋とも書く。現在では蚊帳と書いて〈かや〉と読んでいるが,本来は〈ぶんちょう〉と読む漢語である。歴史は古く,《日本書紀》によると応神天皇の時に中国の呉から蚊屋衣縫という技術者が渡来したとある。このころの蚊帳は素材は生絹(すずし)製で,外蚊屋と内蚊屋の2種類あった。外蚊屋は室内全体もしくは室の開口部を覆うもので,内蚊屋は帳台の天蓋からつり下げて寝床の周囲だけを囲ったものらしい。しかし中世までは蚊帳を使うのは支配階級もごく一部で,貴族でも大部分は蚊やりですごしていたようである。蚊帳がある程度普及するのは室町時代からで,当時の蚊帳は素材はやはり生絹で,四方形に縫いつなげ,上部の周囲に乳(ち)をつけてここに竿を通して天井からつっていた。したがって毎日畳むのでなく,昼間は裾をたくし上げて竿にかけておいた。蚊が出はじめる4月(旧暦)に陰陽師が吉日をえらんでつりはじめ,8月末の吉日をえらんではずした。戦国期になると麻蚊帳が出てくる。このころからは蚊帳も商品化が進み,江戸時代の初めにかけて奈良や近江八幡が麻蚊帳の産地として発展してきた。奈良は苧麻晒(ちよまさらし)の産地であったために早くから産地化した。後発の近江八幡は麻糸産地の越前地方と結んで農家の副業として生地を織らせ,仕立ては各地の販売店で行う方式をとり,販売も独特の行商法で全国に販路を拡大した。こうした商品化の進展につれて形も簡略化され,はじめ竿のかわりに綱となり,ついで四隅に環のつり手をつけるだけとなった。またこの間に汚れも目だたず鮮やかな色彩の萌葱(もえぎ)染,茜縁(あかねぶち)の麻蚊帳が創出されて,蚊帳の実用化と普及は一段と進んだ。麻糸で1枚の蚊帳をつくるには非常な手間と日数を要し,主婦が1張の蚊帳をつくることは男が一代で家を建てることに匹敵する功労といわれた。蚊帳にはこのほか木綿の綿帳,紙製の紙帳もあり,幼児用の折りたたみ式幌蚊帳もある。綿帳,紙帳は麻蚊帳の買えない人や雇人用として用いられたが,そればかりでなく綿帳は冬の防寒用に,また紙帳は塗師がほこり除け用としても利用した。しかし,蚊帳は1960年代を境にしだいに使われなくなっている。
執筆者:小泉 和子 ヨーロッパでは,窓に防虫用のネットを張ったり,薄いカーテンを引いたりして,蚊の侵入を防いだ。しかし蚊の多い地域や上流の家では,それらとモスキート・カノピーmosquito canopyとを併用することもあった。これは天井からつるす天蓋のようなもので,日本の蚊帳に似た構造をもち,ベッドのまわりに床まで亜麻などでつくった薄い布を垂らして蚊を防ぐものである。熱帯の伝染病(マラリア,黄熱病など)の発生地域ではもちろん,蚊の大量発生は温・寒帯の地域にもみられ,殺虫剤とともに蚊を防ぐ設備が必須のものとなっている。とくにダムや鉄道の建設現場などでは,蚊やブユが工事の最大の〈敵〉になっているところもあり,これらの地域のために,カノピーにかわる簡便な蚊帳のようなものもつくられている。
→カ
執筆者:編集部
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…蚊屋とも書く。現在では蚊帳と書いて〈かや〉と読んでいるが,本来は〈ぶんちょう〉と読む漢語である。歴史は古く,《日本書紀》によると応神天皇の時に中国の呉から蚊屋衣縫という技術者が渡来したとある。…
…これを追うためには煙が有効な手段で,山野で労働する者は古布を固く巻いて糸で縛り,点火して腰に下げその煙で蚊を追い,また黒布で眼部だけ出して頭部を包みこれを防いだ。和歌,俳句などにも蚊柱,蚊帳(かや),蚊やりなどを詠じたものが多く,日本の春から秋までの生活と切り離せぬ風物であった。ことに蚊帳は近世以後生活必需品として普及し,九州から中部・関東地方の村にはゆい,すなわち労力交換の共同作業で女がつくり,仕上がると集まって餅を共食するカヤマツリという習慣があった。…
※「蚊帳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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