近世前期の大名。茶匠。片桐且元(かつもと)の弟貞隆の子で摂津茨木(いばらき)(大阪府)に生まれる。名は長三郎貞俊、のち貞昌。大徳寺の玉舟和尚(おしょう)に参禅し、三叔宗関の号を与えられる。また石州の名は1624年(寛永1)12月石見守(いわみのかみ)に任ぜられたのによる。27年父の没後大和(やまと)小泉(奈良県大和郡山(こおりやま)市)1万6400石を襲封した。33年幕命により徳川家の菩提(ぼだい)所である京都東山知恩院(ちおんいん)の作事奉行(ぶぎょう)にあたったのをはじめ、各所の作事奉行、郡(こおり)奉行、巡見奉行などを勤める。
茶は千道安(せんのどうあん)(利休の子)の弟子桑山左近貞晴(重長(しげなが))に習う。1648年(慶安1)将軍徳川家光(いえみつ)の命により柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)の分類整理を行い、65年(寛文5)11月には江戸城黒書院で将軍家綱(いえつな)や老中たちに点茶している。指南書である『茶湯(ちゃのゆ)三百ヶ条』はこのとき上進したものと伝える。これ以前61年(寛文1)12月『石州佗(わ)びの文』を書き、「茶湯さびたるは吉、さばしたるは悪敷と申事」と述べたことは有名。大和小泉慈光院、大和當麻寺(たいまでら)(奈良県葛城(かつらぎ)市當麻)中之坊(円窓の席)に好みの茶席がある。70年三男貞房に家督を譲り、隠居。延宝(えんぽう)元年11月小泉に没す。墓は大徳寺高林院にある。
[村井康彦]
江戸時代初期の大名,茶匠,石州流の開祖。片桐且元の弟主膳正貞隆の子として摂津茨木に生まれる。従五位下に叙し,石見守貞昌と称し,三叔宗関と号した。父に従って大和小泉に入り,その死後大和・河内1万6400石の遺領を受ける。京都知恩院の普請奉行をはじめ,土木・作事にあたり,小堀遠州の後継者の観を呈した。1642年(寛永19)には関東の郡奉行となる。茶道は千道安の高弟桑山宗仙に学び,利休流茶法の奥義をきわめ,特に〈一畳半の伝〉をその究極として伝授した。その一方では台子(だいす)の茶法を真行草三体の九段台子にまとめ,家老の藤林宗源に伝授している。遠州のあとをうけ,1665年(寛文5)には家綱の御道具奉行を拝して将軍家の茶道師範となり,《石州三百箇条》を献じるなどして,その茶名があがった。その後,大和慈光院を隠居所として建立し,大徳寺の玉舟宗璠を請じて開山とした。その茶法は《侘びの文》や《自筆案詞》などによって知ることができる。
執筆者:筒井 紘一
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…山号は円通山。茶道石州流の始祖である片桐石州が,亡父貞隆の菩提のため,1663年(寛文3)大徳寺の玉舟宗璠を開山にして開創した。石州の禅と茶,また幕府普請奉行としての技術をしのばせる茶室と書院(重文),それに庭園(名・史)があることで有名である。…
…片桐石州を流祖とする茶道の流派の一つ。石州が4代将軍徳川家綱の茶道師範であった関係で,全国大名,旗本のあいだでひろまった。…
…《清巌禅師茶事十六ヶ条》に〈大名有力の茶〉という語があり,町人の茶に対する大名の茶というタイプが意識されている。大名茶といえば歴代徳川将軍の茶道指南とされる古田織部,小堀遠州,片桐石州ら大名茶人の茶風を指すが,織部にはかぶき者的な性格があって大名茶と性格を異にする。遠州,石州の茶は封建社会を支える分限思想や儒教道徳的な徳目をその茶道思想に含み,好みも均衡のとれた洗練度の高い美しさを見せ,また名物道具を中心とする書院台子の茶の伝統をその点前に包含するなど,大名の趣味としての要件を備えているといえよう。…
※「片桐石州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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