江浦村(読み)えのうらむら

日本歴史地名大系 「江浦村」の解説

江浦村
えのうらむら

[現在地名]沼津市江浦

大久保おおくぼ山を隔てて獅子浜ししはま村の南東鷲頭わしず山の南に位置し、南は海(駿河湾の北東隅にある江浦湾)に面した漁村。東は多比たび村。集落は鷲頭山の山裾と江浦湾との間のわずかな平坦地に形成された。江浦湾は船舶停泊に必要な水深があり、かつ波が静かであることから古くから天然の良港としての地位を占めてきた。江浦は江野浦(元禄郷帳など)・江ノ浦などとも書いた。中世には口野くちの(口野五ヵ村)のうちであった。当地の旧家久住氏(楠見氏)は小池・土佐谷・岩崎などの七家とともに伊勢国白子しろこ(現三重県鈴鹿市)から移住したといわれ、戦国期には葛山氏などに属し、一帯に勢力があった。なお「続太平記」では上杉禅秀の乱で伊豆に逃れた足利持氏のもとに馳せ参じた武士のなかに久住氏の名がみえる。

弘治三年(一五五七)三月二四日、葛山氏元は楠見善左衛門尉に「口野郷之内江浦」へ着岸する伊勢船などとの取引権・問屋営業権を安堵している。

江浦村
えのうらむら

[現在地名]高田町江浦

江浦町えのうらまち村の南にあり、三池郡に属する。中世には同村とともに江浦(江浦村)を構成し、近世初頭までは矢部やべ川の河口津に位置していた。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高一千三一七石余・新田高二八一石余、小物成は山手年貢と葭野年貢で一一石余。柳川藩立花氏二代忠茂代には由布進士の知行地が設定されていた(万治三年「忠茂公御代之分限帳」渡辺家史料)。旧高旧領取調帳では高二千一五七石余。幕末期の庄屋永江藤次郎は北新開きたしんがい村庄屋を兼務していた(三池郡誌)当村域の三開さんがい水門付近より西側の角右衛門かくえもん開・三反さんたん開・しよ開・開などは近世以降の干拓による開地である(江浦村社家日記写「吉弘儀左衛門家御書並諸記録」柳河藩政史料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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