高田町
たかたまち
面積:四一・〇一平方キロ
県南部に位置し、北は山門郡大和町・瀬高町、東は同郡山川町、南は大牟田市に接し、西は有明海に臨む。南東部は低い山地で、唐川・楠田川沿いに小平野がみられる。北部は筑後平野に向かって開け、飯江川が西流して矢部川に合流、矢部川河口左岸から有明海の沿岸にかけては広大な干拓地が広がる。町のほぼ中央をJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線が南北に走り、JRの渡瀬駅と西鉄の江浦・開の各駅がある。北上してきた国道二〇八号は濃施の高田町役場前で国道二〇九号を東寄りに分岐する。町名は飯江川に架かる高田堰にちなむ。
当町域の考古遺跡については大牟田市を参照。律令制下では大部分が三毛郡(のち三池郡)に、飯江川上流右岸域は山門郡に属した。「三毛」の郡名起源は、景行天皇が巨大な櫟の倒木に感嘆してその地を「御木国」と名付け、それがなまって後に三毛となったといい(「釈日本紀」所引「筑後国風土記」逸文など)、当町岩津の字高木をその故地とみる説もある(南筑明覧)。庄園公領制下では町域は三毛北郷に属し、鎌倉時代中期に九条家領三毛山門庄があった。南北朝期以降三毛北郷は安楽寺(太宰府天満宮)領となった。山門郡には平安時代から安楽寺領得飯庄、鎌倉期に北条得宗領竹井庄があった。そのほか肥後阿蘇社(現熊本県一の宮町)領の新開(新賀江)は中世有明海沿岸に造成された古い干拓地である。
高田町
たかだまち
[現在地名]石川町 南町・関根・新町・北町・屋敷ノ入・境ノ内・江堀田・一ノ沢・長郷田・古舘・高田・矢ノ目田・鹿ノ坂
現石川町の中央部、南西流する北須川に西流する支流今出川が合流する地点に位置する町場。東は双里村、西は内槙村、南は下泉町、北は母畑村。中通りと浜通りを結ぶ御斎所街道は、内槙村から鹿ノ坂を下って当町に入り双里村へ抜ける。浜通り方面からは、須賀川町方面と白河城下方面への分岐点にあたり、古くから交通の要衝として知られる。北須川東岸沿いに北町・新町・南町が並び、同川沿いに町並が続く下泉町とともに石川町とも称された。貞治六年(一三六七)七月一二日の足利義詮御教書(阿保文書)に「陸奥国石河庄内泉郷高田・北炭釜・佐宇里等」とみえ、これらの所領が戦功のあった結城朝常(小峰朝常)に与えられている。
高田町
たかたまち
円山川と支流石和川との合流域左岸に位置する。高田村のうちで、山陰道筋の要所として宿場町の様相を呈した街区、すなわち北の浄安寺から南の教蓮寺の間をいう。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「高田町」とみえ、土田町などと結ぶ道が記される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図では高二六二石余とあり、高田村を含むものであろう。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となり、以後は宮田村と同じ変遷であったと推定される。
高田町
たかだちよう
[現在地名]大和郡山市高田口町
郡山城地の南を東西に通る道が城下町を東に出た所にできた町。西の矢田口に対する。
高田町
たかだちよう
中京区間之町通押小路下ル
南北に通る間之町通を挟む両側町。
平安京の条坊では、左京三条四坊一保二町の中央部にあたる。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「高田町」とみえ、以降変化はない。寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「この町のひかし行に高田の寺あり、この寺は親鸞聖人の弟子たかだの覚信房の開基也。東の川原町二条にも高田の寺あり。本寺は伊勢の一心伝これなり」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の高田町の言及
【陸前高田[市]】より
…江戸時代は仙台藩に属し,旧気仙町今泉に代官所が置かれ,気仙郡の中心としてにぎわった。現在の中心地である旧高田町は,氷上山の南麓にあり,JR大船渡線,国道45号線が通じている。 温暖な気候と三陸の好漁場に恵まれて,農林漁業が主要な産業であり,気仙川流域で米作主体の農業が営まれるほか,山間部では酪農と養蚕,東部丘陵地で果樹や野菜の栽培が行われている。…
※「高田町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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