池田町村(読み)いけだまちむら

日本歴史地名大系 「池田町村」の解説

池田町村
いけだまちむら

[現在地名]池田町大字池田

高瀬たかせ左岸の現池田町中央の水田地帯に囲まれた平坦地に位置し、高瀬川を挟んで現松川まつかわ村に対する。古代の前科さきしな郷の北端にあたると想定されている。原初の池田町は、東南の「馬の口うまのくち」の近くにあったと伝えられるが、現在の池田町は、高瀬川からの用水堰によって街村の区画をもつ宿場町として形成されており、その年次が江戸時代をさかのぼることは明らかである。「馬の口」という地名から現南安曇郡穂高ほたか古厩ふるまや集落から分岐して古代の道が通じていたことがうかがわれ、池田の出現の古さが想定される。

「親元日記」の寛正六年(一四六五)五月一八日条に、足利幕府が仁科持盛に命じて「御同名堀内七郎殿知行分矢原庄池田郷内堀内事」として、池田郷内の堀之内ほりのうちに居住する仁科氏の一族堀内氏がその伯父押領された堀之内の地を再び堀内氏に安堵した状があるが、これを池田の名の初見とする。この状によって池田郷は矢原やばら庄に属していたことが知れる。

次いで明応一〇年(一五〇一)の三宮穂高社御造宮定日記には、現穂高神社の式年造宮の所役を課された諸郷に交じって「池田庄科 籾八石三斗二升、御幣紙八十二枚半、白米八斗三升二合、手束麻八十三把半、釘八十三半」とあってそれ以後みえており、最も重い課役を課せられていたが、このことにより、両村が穂高神社に従属するに至った事情が解明できて興味深い。


池田町村
いけだまちむら

[現在地名]富山市水橋池田町みずはしいけだまち

白岩しらいわ川左岸沿いに位置し、南は二ッ屋ふたつや村。同川右岸が親村で、水害によって左岸へ出村したといわれる。正保郷帳には「池田ノ町村」とみえ、高三九八石余、田方二〇町八反余・畑方五町七反、新田高七〇石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高三九七石・免四ツ、小物成は鮭役八匁・鱒役三匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると、明暦二年の新田高一石があった(三箇国高物成帳)。天和元年(一六八一)検地引高一四三石などにより、天保一一年(一八四〇)には打銀高三〇七石(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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