池辺村
いこのべむら
[現在地名]緑区池辺町・佐江戸町・大丸・見花山・荏田南一―二丁目
南部は鶴見川に沿う平地で、神奈川宿(現神奈川区)からの往還が東の川向村から入り、西の佐江戸村へ抜ける。中央から北部は丘陵がちで、江川(大熊川)のつくる谷戸が奥深く入込んでいる。「風土記稿」によれば、かみあらい谷・をきが谷田・滝ヶ谷・葛ヶ谷などの小名がある。小名の猫ヶ谷・虎ヶ谷は川和村との境界近くにある。西は川和村、北は荏田村、東は東方村と丘陵続きに接する。この丘陵を中原道が東方村より入り、佐江戸村に抜ける。南側、鶴見川の対岸は鴨居村と本郷村。
永禄四年(一五六一)四月二四日付の座間弥三郎宛の宮川左近書状写(武州古文書)に「我等知行池辺之内」とみえる。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)に「武蔵国都筑こつくへ之庄内いこのへ ひかしかた」とある。
池辺村
いけべむら
[現在地名]金峰町池辺
尾下村の北、堀川流域に位置する。東の金峰山本岳(六三六・三メートル)から西の吹上浜にかけての細長い地域である。伊作筋が村の中央を南北に通る。田布施郷のうち。中世は阿多北方に含まれた。仁治二年(一二四一)九月一〇日の六波羅御教書写(国分文書)によれば、阿多北方地頭鮫島家高は池辺村に課役を負わせて、質物を返還しないとして薩摩国分寺(現川内市)沙汰人惟宗(国分)友成に告訴され、延応二年(一二四〇)に六波羅探題より濫妨を停止されたが、下知に従わず、再び違乱を停止するよう命じられている。この池辺村は薩摩国建久図田帳の阿多郡の項に記された「寺領五町安楽寺 下司僧安静」に相当すると推定され、太宰府天満宮安楽寺領内の末寺国分寺一〇四町五段に含まれると思われる。なお鮫島家高は当村への濫妨をやめず仁治三年―寛元四年(一二四二―四六)にも濫妨を停止せよとの六波羅探題の命令が出されている(寛元四年九月五日「六波羅御教書写」国分文書)。
池辺村
いけのべむら
[現在地名]川越市池辺
豊田本村の西、入間川右岸の低地に立地。村名はかつて池であった地の周辺を開発したことに由来といい、押堀淵・梶原淵などの沼は池の旧跡という(風土記稿)。「親玄僧正日記」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)正応六年(一二九三)八月二日に「武蔵国池辺郷東方」とみえ、同年七月二九日将軍久明親王より山城醍醐寺に寄進されている。享徳四年(一四五五)七月一三日古河公方足利成氏方について戦った二階堂信濃三郎は「池野辺郷」ほかの所領安堵を申請している(「二階堂信濃三郎申状写」喜連川家御書案留書)。
池辺村
いけべむら
[現在地名]竹田市小塚
肥後国境に位置し、西は肥後国阿蘇郡大利村(現熊本県産山村)、南西は小塚村、北東は西園村。池部とも記される。正保郷帳では大戸郷に属し、田方一五石余・畑方八〇石余で圧倒的に畑方が多く、茅山有と注記される。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は中、免三ツ四分、田六石余(六反余)・畑一〇三石余(一八町六反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑二石余(五町四反余)がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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