池部村(読み)いけべむら

日本歴史地名大系 「池部村」の解説

池部村
いけべむら

[現在地名]福知山市字池部

由良川右岸、おにじよう山塊の西麓に沿って発達した集落で、北は安井やすい村、南はなか村に接する。由良川の近世における蛇行が最も顕著なところで、村の西方新堤防の内側に長さ二百数十メートルの南北に細長い河跡沼が現存する。その由良川下流への延長線が、中央集落の北端へ接する所を船戸ふなどといい、江戸末期の船着場であった。ちなみに現在由良川本流は、集落の西方一キロ以上も離れて流れ、近代の偏行を物語る。この幅広い氾濫原は明治期の二万分の一地形図をみると、全面桑畑か畑であり、水田はみられない。


池部村
いけべむら

[現在地名]日田市有田ありた 三池町みいけまち東有田ひがしありた 池部町・松野町まつのまち

中尾なかお村の南方に位置する。池辺とも。「日田造領記」などによると、郡老世戸口氏は日田家の分流であるが不詳で、塁は西池部にあるという。当時の惣領は「日田造領記」は世戸口大和守永信、「豊西記」「豊後国志」は世戸口大和守永益、「日田記」「大友家文書録」は世戸口大隅守永益とするが、永信は佐藤永信の誤用とも考えられる。天正一二年(一五八四)の筑後猫尾ねこお城・高牟礼たかむれ(現福岡県黒木町)の合戦を記した「日田記」にみえる世戸口総右衛門、同一六年三月晦日の伊勢御塩焼大夫宛の世戸口相右衛門鎮孝書状(皇学館大学蔵)のほか、寛永(一六二四―四四)初年の日田出口村書上(東京大学史料編纂所蔵)大山おおやまのうち小五馬こいつま村・鎌手かまで(現大山町)は日田奉行のうち世戸口殿の知行とある。


池部村
いけべむら

[現在地名]稲沢市池部町

東は稲葉いなば村・大塚おおつか村に接し、三宅みやけ川東岸の自然堤防上の地高にあり、人家は村の中央に集中している(天保村絵図)。弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)では「鈴裳名田畠」のうちに「中池部里」「下池部里」、「永吉田畠」のうちに「中池辺里」、「金岩恒貞」領のうちに「中池辺里」とあるのが初見で、それぞれ中島郡南条なんじよう三宅郷に属していた。三宅郷は当市の中央部から三宅川に沿って南下し現中島郡平和へいわ町に至る地域であった(稲沢市史)。嘉元四年(一三〇六)沙弥覚蔵ら一六名がいま福満ふくまん寺の寺職領であった「尾張国中嶋郡南条下池部里内」の畑地三町五反を鎌倉円覚えんがく寺に寄進した(円覚寺文書)


池部村
いけべむら

[現在地名]豊後高田市池部

相原あいわら村の東、田染たしぶ盆地を北西流するかつら川右岸一帯に位置する。正和六年(一三一七)正月二六日の宇佐宮政所下文(永弘文書)に「近弘内池部」とみえ、惣検校宇佐(益永宇輔か)は本家の下知に任せ、忠基に田染庄末次すえつぎ名をはじめ池部などの田畠を領掌させている。江戸時代の領主の変遷は高田たかだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳には池辺村とみえ、高四三五石余、家数八一(うち百姓一七・寺一、隠居・名子・下人・庭屋・牛屋・裏や六二)・人数一三八(うち百姓一七・名子一〇・山守一)、牛一九・馬二。


池部村
いけべむら

[現在地名]河合町大字池部

穴闇なぐら村の南に位置する。嘉保二年(一〇九五)正月の大江公仲処分状案(東大寺文書)に「池辺庄在大和」とある池辺庄か。

慶長期(一五九六―一六一五)は「長らくいけへ共ニ」とあり、村高は六九一・一石長楽村とまだ村切が行われなかったらしい。元和郷帳では「池辺村」として独立し、村高は二〇〇・一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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