福知山城下(読み)ふくちやまじようか

日本歴史地名大系 「福知山城下」の解説

福知山城下
ふくちやまじようか

福知山盆地のほぼ中央、西南から長く突き出した丘陵末端に築かれた福知山城(別名臥竜城)を中心に作られた町で、城の東で西流する由良川が北流する土師はぜ川を合わせて、流れを北へ転じる。城下はその西岸に位置する。

福知山城の地は中世後期には、この地方に勢力をもった塩見氏の居城があり横山よこやま城とよばれた。天正七年(一五七九)丹波に進撃した明智光秀によって落城、その後光秀はここに藤木権兵衛・明智秀満を城代として置き、近世的城塞として改修に取り掛かった。福知山の名も光秀時代に初めて用いられたといわれ(丹波志)、茶人津田宗及の日記の同九年四月一〇日条に「福地山」とみえる。

城下町建設も光秀の時代に着手されたと思われるが、光秀の統治は三年足らずで終わったから、その具体的様子は不明である。ただ光秀の頃には由良川は東方よりまっすぐに現福知山駅前方辺まで流れ、その西方で流れを北に変えていたが、光秀はそれを城の東北麓で西北流するように変え、城下町の敷地を堤防の西南方に求めたといわれる(丹波志)。そのため城下町は、盆地の中の最も低湿な由良川旧氾濫原にあたり、近年まで市街地の下水排水は大きな問題となっていた。

〔城主〕

天正一〇年六月本能寺の変の後、光秀が失脚すると、福知山城には豊臣秀吉の妻の叔父にあたる杉原家次が二万石で封じられた。しかしまもなく病没。次にこの地方の土豪から出世し、秀吉重臣となった小野木重勝が三万石の城主となった。関ヶ原の合戦で大坂方にくみした重勝はその後丹後田辺たなべ(現舞鶴市)の城主細川忠興に攻められて自刃した。その後を受けて入部したのが有馬玄蕃頭豊氏六万石で、城郭および城下町は豊氏の時代にほぼ整えられたといわれる。

元和六年(一六二〇)一二月、豊氏は筑後久留米くるめ(現福岡県久留米市)に転封。翌七年八月には丹波亀山かめやま(現亀岡市)から岡部長盛が五万石で移ったが、わずか三年で美濃大垣おおがき(現岐阜県大垣市)に再転した。寛永元年(一六二四)九月摂津中島なかしま(現大阪市)より稲葉紀通が四万五千七〇〇石で就封、慶安二年(一六四九)までの二五年間を統治したが除封された。その後三河刈屋かりや(現愛知県刈谷市)の城主松平忠房(四万五千九〇〇石)が入部。治世二〇年にして寛文九年(一六六九)に肥前島原しまばら(現長崎県島原市)に移封した。忠房のあと同年六月常陸土浦つちうら(現茨城県土浦市)城主朽木稙昌が三万二千石で入部。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福知山城下の言及

【福知山[市]】より

…市域北端近くの三岳山(839m)は古くは山岳霊場で,大江山の鬼退治に赴く源頼光一行が戦勝を祈願した山との伝説がある。【浮田 典良】
[福知山城下]
丹波国の城下町。戦国期,当地には天田郡中部一帯に勢力を有した塩見氏の横山城があったが,明智光秀が攻略,改修して福智山城と名付けた。…

※「福知山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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