沖縄芸能(読み)おきなわげいのう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沖縄芸能
おきなわげいのう

沖縄の芸能は多種多彩であるが、大別して、島々の生活のなかで伝承されている民俗芸能と、琉球(りゅうきゅう)王国時代の宮廷で育成され、のち民間の劇場を中心に継承発展してきた舞台芸能の2種がある。[三隅治雄]

民俗芸能

各地域で催される祭りをはじめ、婚礼、新築祝い、年祝い、送迎などの家ごとの宴、あるいは男女の野遊びや村の記念行事などさまざまの機会に演じられるが、沖縄、宮古(みやこ)、八重山(やえやま)の3諸島でそれぞれに特色がある。[三隅治雄]
沖縄諸島
クェーナ、ウシデーク、エイサー、獅子舞(ししまい)、棒踊、棒術、打花鼓(たあふぁくう)、路次楽(ろじがく)、唐踊(とうおどり)、チョンダラー、村芝居などが各地に分布する。クェーナは、元来神への祈祷(きとう)歌で、願い事を五・五調の叙事詩にこまごまと叙述して、最後に「かく申し上げた願い事をお聞きとどけください」と結ぶが、これを、仕事始め、家建て、旅立ち、雨乞(あまご)いなどのおりに女たちが集まって円陣を組んで歌い、かつ踊る。首里(しゅり)の士族の家庭をはじめ一般でも行われ、農村では田植のときに歌う習慣もあった。ウシデークは村祭りに演じる女性の集団舞踊で、八・八・八・六の琉歌形式の歌を連ね、音頭取りの打つ小太鼓のリズムにのって女たちが大きな円陣をつくって優雅に踊る。手踊りもあり、扇子、四つ竹、手布(てさーじ)をもつ踊りもあり、土地によってシヌグ舞(もーい)、八月踊などともいう。エイサーは盆踊りである。「エイサー、スリ」などと囃(はや)すところからの名というが、盆の15日夜の精霊(しょうりょう)送りに男たちが列を組んで太鼓などを打ち囃しながら村内を巡ったのが古い形らしい。いまでは男女ともに踊る例が多くなり、また本島北部には女だけで踊る例もある。初盆の家を訪問して「無蔵(んぞ)念仏」など和讃(わさん)風の念仏歌を手向けるほか、さまざまの民謡を太鼓や三味線の囃子(はやし)にのせながらにぎやかに歌い踊る。獅子舞は本土の神楽(かぐら)獅子と異なり、全身をバショウやアサの繊維などで包んだ縫いぐるみの獅子で、中国の獅子舞と形を共通にする。前足役、後ろ足役の2人が入り、獅子ワクヤーと称する者の誘導で毬(まり)取りや回転などの所作を演じる。悪魔払いの舞とされ、豊年祭や盆に演じる。棒踊は、多くの男たちが棒を打ち合わせながら踊るもので、那覇市、名護市、北中城(きたなかぐすく)村、伊江島などではフェーヌシマ(南島)と称する。南方や中国から伝来したものと伝え、赤毛や綿の被(かぶ)り物をつけた踊り手が曲技的な技を交えて踊る。一方、武技的要素の強い棒術が今帰仁(なきじん)村などにあり、三尺棒、六尺棒を2人1組の男たちが打ち合わせるもので、組棒などという。
 打花鼓は中国官人の道中を模したもので、唐服の男たちが、哨吶(つおな)(チャルメラ)、太鼓、鉦(かね)、銅鑼(どら)などを奏しながら踊り歩く。中国福建省からの帰化人の子孫の住む久米(くめ)村(現那覇市久米町)に伝えられたもので、現在は中城村伊集(いじゅ)にある。路次楽も哨吶、小太鼓を奏しながら練り歩く中国伝来の楽で、江戸時代に琉球国王の行幸の道中に奏されたものの名残(なごり)という。唐踊は津堅島(つけんじま)の踊りで、太鼓を打ちながら本土風な歌につれて踊るが、「唐」は単に異国風くらいの意味らしく、種子島(たねがしま)の大踊などに似たものである。チョンダラーは、江戸時代に存在した京太郎と称する門付(かどづけ)芸能者の行った芸能で、早口説(はやくどち)、馬舞(うまめー)、鳥刺舞(とりさしめー)などがあり、沖縄市や国頭(くにがみ)郡宜野座(ぎのざ)村に伝わる。宮廷芸能の組踊『万歳敵討(まんざいてきうち)』の万歳芸や、エイサーの無蔵念仏、また那覇市辻(つじ)町で旧正月20日に行われるジュリウマの踊りなども、このチョンダラーがもたらしたものと思われる。村芝居は村々の豊年祭や盆などに行われ、長寿の翁嫗(おきなおうな)以下一門男女が出て家繁盛を祝う『長者(ちょうじゃ)の大主(うふしゅ)』をはじめ、さまざまの踊りや狂言を演じる。村の創作もあるが、宮廷伝承の組踊や端踊(はおどり)を演じる土地も多い。人形芝居はかつてチョンダラーが演じたが、いまは絶えた。わずかに今帰仁村謝名(じゃな)などに獅子の人形を糸で操る芸が伝わる。[三隅治雄]
宮古諸島
獅子舞、棒踊、棒術が全域的にあり、また独特の組踊を伝承する多良間島(たらまじま)の村芝居なども注目されるが、宮古ならではの集団舞踊にクイチャーがある。声合わせの意から出たともいわれ、祭りはもちろん臨時の祈願や家々の宴会など、人々の集まるときには決まって歌い踊られる。男女一団となって円陣を組み、村祭りならば村建ての由来を述べた歌など、また祈願事ならばその願意を盛った歌などを唱和しながら、手を打ち振り、また足を力強く踏み、かつ跳ねて、踊り回る。宮古の民衆の生命の躍動を示した舞踊である。[三隅治雄]
八重山諸島
古来芸能が盛んで独自の歌舞が各所で育った。他諸島にもある獅子舞、棒踊、棒術はここでも広く分布するが、石垣島や小浜島には獅子舞に添えてペッソーとよぶ太鼓踊を演じる土地があり、黒島では獅子を引き出すのに、植物の鬘(かつら)を頭につけた集団が小太鼓を打ちつつ遊太楽(あそびたいらく)とよぶ踊りを踊る。打楽器を使う踊りでは、獅子舞に関係ないが、石垣島川平(かびら)に銭太鼓の踊がある。撥(ばち)の両端に穴をあけて銭を通し、それで太鼓を打ちながら優雅に踊る。竹富島にも同種の踊りがある。八重山では、アワ、イネの収穫後の旧暦6月から、次の播種(はしゅ)にかかる旧暦10月ごろまでの期間に、プーリィ(収穫祭)、盆、結願、節(シツイ)、種子(たね)取りなどの大きな祭りが相次いで催され、さまざまの芸能が演じられる。そのなかで信仰的にも人気の高いのは弥勒踊(みろくおどり)で、海のかなたから世(ユー)(米)をもたらす神と崇(あが)められる弥勒が福相の仮面をつけ、多くの童女を従えて村内を道中する。
 西表島(いりおもてじま)祖納(そない)では節の祭りに弥勒が出、その行列に節のアンガマが加わる。扮装(ふんそう)をした女性集団の踊りで、「五尺手拭(てぬぐい)」など本土風の曲も演じる。アンガマは一般的に仮装・覆面の踊りをいい、盆のとき、そうした一団が各戸を訪問して踊るのを盆アンガマという。石垣島登野城(とのしろ)では、ウシュマイ(翁)・ンミ(嫗)の仮面をつけた者を先頭とする仮装の一団が家々の座敷に上って念仏踊などを踊るが、これは後世(ぐしょう)(冥土(めいど))からきた先祖たちだと説明される。どの祭りにも演じる集団舞踊には巻踊があり、これは祖先を祀(まつ)る御嶽(うたき)にマキニンジュ(血縁集団)が集まって踊る意味から出たともいう。手ぶりも古風な円陣舞踊である。また祭りをにぎわす村芝居は各地にあるが、滑稽(こっけい)な台詞(せりふ)と所作を連ねる狂言を豊富にもっているのが注目され、また藩政時代、士族たちが作詞して三線(さんしん)(三味線)の手をつけた節歌(ふしうた)に振(ふり)をつけ、八重山独特の舞踊に仕上げた曲を、狂言の間に演じる風も盛んである。なおまた、石垣島登野城には、かつて本土の能の囃子から学んだという大胴(おおどう)(大鼓(おおかわ))、小胴(こどう)(小鼓)の芸が残っている。
 祭り以外の遊びに、若い男女が夜間広場に集まって夜遊びと称して、三線、歌にのって即興的な踊りに興じる風があるが、沖縄本島ではこれを毛(もう)(野原のこと)遊びと称した。アソビは沖縄では本来祭りの宗教的な歌舞をさし、いまでもイザイホーなど巫女(みこ)集団の祭儀行動をアソビと称している。そして発生的には、この種の巫女の祭儀行動や村の男女の乱舞が沖縄の歌舞の基となったようで、ウシデークその他各種の民俗芸能にその種子を提供したことはもちろん、舞台芸能にも多くの影響を与えた。[三隅治雄]

舞台芸能

村々の芝居にも舞台芸能の源流を求められるが、鑑賞芸能として一つの完成をみたのは琉球王家の供宴の場においてであった。王家では新国王即位のとき、その認証と王冠授与のために御冠船(おかんせん)に乗って来島する中国の使節を迎える供宴を国家の大事として、仲秋・重陽の宴などに、かねて万全の練磨を積ましめた士族の子弟の歌舞を披露して国威を示した。16、17世紀ごろの番組をみると、美服をまとった美童が数人ないし数十人出て愛らしく舞う稚児(ちご)芸が中心を占めていたが、1719年(享保4)、尚敬王(しょうけいおう)即位認証の冊封使(さくほうし)が来島した際、芸能番組制作を統轄する踊奉行に任じられた玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が、従来の企画を一新し、自ら創作した組踊と称する歌舞劇を上演して喝采(かっさい)を得た。以来、冊封使供応の宴では組踊を中心にし、ほかに端踊などと総称する舞踊小品をいくつか上演する形が定まった。組踊は、沖縄古来の歌謡オモロの文脈や語調、方言や和語を巧みに織り混ぜてつくった八・八調の台詞に、八・八・八・六調の琉歌を挟み、それに各種の舞踊を組み合わせてつくった郷土色豊かな歌舞劇で、朝薫は『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』『二童敵討(にどうてきうち)』『銘苅子(めかるしい)』『女物狂(おんなものぐるい)』『孝行の巻』の5番を創作した。その後、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)の『手水(てみず)の縁(えん)』、田里朝直(たざとちょうちょく)の『万歳敵討』など数多くの作品が生まれ、1879年(明治12)の廃藩置県までに47編ほどの組踊が創作された。一方、端踊には老人踊、二歳踊(にさいおどり)(青年の踊り)、女踊、若衆踊(わかしゅおどり)の4種があった。演者はいずれも士族の子弟で、童児が赤い振袖姿で若衆踊を、やや長じた者が紅型(びんがた)打掛の女装で女踊を、成年男子が紋服姿で二歳踊を、年長者が翁・嫗姿で老人踊を踊った。伴奏は組踊、端踊ともに三線の弾き歌いと箏(そう)、胡弓(こきゅう)、笛などで、歌を二つ三つと適宜に組み合わせて一曲を構成した。これら組踊、端踊を御冠船踊と総称するが、これは冊封使の乗る船を御冠船と称したことに由来する。この御冠船渡来は廃藩置県とともにやみ、踊りは那覇港近くにできた庶民相手の仲毛(なかもう)、端道(はたみち)などの芝居小屋で士族出の役者によって演じられるようになる。そして観客の嗜好(しこう)にこたえるべく、村娘町娘が民謡にのって踊る姉小舞(あんぐわもーい)など、民間の風俗や民俗芸能に取材した雑踊(ぞうおどり)と総称される作品が玉城盛重(たまぐすくせいじゅう)などの名手によってつくられた。また明治から大正にかけて世俗の事件を歌の掛け合いで見せる歌劇や台詞中心の狂言、昭和になって史劇の類が次々に生まれた。舞踊家、俳優にして作品の創作者でもある、渡嘉敷守良(とかしきしゅりょう)、新垣松含(あらがきしょうがん)、伊良波尹吉(いらはいんきち)らがこれらのいわば沖縄の商業演劇の歴史をつくりあげ、昭和初期から終戦の前年まで那覇の珊瑚座(さんござ)を中心に、真境名由康(まじきなゆうこう)、島袋光裕(しまぶくろこうゆう)、親泊興照(おやどまりこうしょう)、宮城能造(みやぎのうぞう)らが活躍した。しかし、この芝居繁栄も第二次世界大戦で中断し、戦後は真境名佳子(よしこ)ら女流舞踊家の台頭もあって舞踊人口が激増し、重要無形文化財の総合指定を受けた組踊も、舞踊家が伝承するようになった。[三隅治雄]
『山内盛彬著『琉球の音楽芸能史』(1959・民俗芸能全集刊行会) ▽三隅治雄編『沖縄の芸能』(1969・邦楽と舞踊出版部) ▽三隅治雄著『原日本おきなわ』(1972・第三文明社) ▽矢野輝雄著『沖縄芸能史話』(1974・日本放送出版協会)』

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