水稲の苗を水田に移植する作業。世界的にみると,種子を直接水田にまく直播(ちよくはん)栽培もかなりあるが,日本では,水利条件不良などのごく一部の地方を除いて,ほとんどが苗を作って田植を行う。しかし,日本でも古代の稲作は直播方式であったのではないかといわれている。苗代あるいは育苗箱内で苗を育て,これを1株ずつ植える田植方式は,直播に比べると多くの労働力を必要とするにもかかわらず,日本で一般的に行われている理由は,(1)本田での生育期間が短縮され,土地の利用度を高めるとともに春先の不安定な気象条件から幼苗を保護することができる,(2)発芽したばかりの幼植物に比べて大きな苗を植えることにより,雑草に対する競争力が大きい,(3)苗を狭い苗代,育苗箱で育てることにより,苗の保護管理(保温するなど)が行きとどき,良い苗を選びそろえて移植することができるなどによるものである。日本では,昭和30年代までは苗代で育苗し,約7枚の葉をつけた大きな苗(成苗)を手で植えていたが,40年代に入って田植機が開発され,約10年で全国の水田面積の90%以上が機械移植に変わった。田植機の開発は古くから多くの考案がされてきたが,実用化されたものはまったくなかった。しかし,昭和30年代の経済の高度成長とともに,労働力が農村から都市へ吸引されたことにより,所要労力の大きい田植作業の省力化が必要となり,実用的な機械が生まれた。当初は,成苗を手と同じ動きをするピンセット状の植付け部でつまみ出し,植えることが試みられたが,苗をそろえて準備することの困難や,欠株の発生,損傷苗の発生などで成功しなかった。その後,約3枚の葉をつけた小さな苗(稚苗)を育苗箱中で育て,土の付いたまま田面に落として植え付ける稚苗田植方式が成功して普及した。しかし,稚苗は水田で生育する期間が長くなるために,植付け時期が早くなり裏作が作付けできなくなること,北日本では低温の被害を受ける可能性が高いことなどから,育苗箱中の生育日数を長くする努力がされ,4~5枚の葉をもつ中苗田植方式が生まれた。しかし,成苗の手植えに比べるとまだ問題が残っており,成苗機械田植方式の確立が望まれている。
田植の方法は次のとおりである。手植えでは水田を耕起,砕土し,ついで水を張って代搔きを繰り返して田面を軟らかく水平にする。つぎに苗代で苗を抜いて束ね(苗取り),水田へ運ぶ。植付けにあたっては,一定間隔に印をつけた田植綱を張ってこれを基準に植えるか,あらかじめ水田の水を落として田植定規などで田面に印をつけて植えたりする。このように,従来の田植は,大勢の人が集まって一斉に水田を1枚ずつ植えなければならないので,家族労働力だけでは不足するため,農家の間で労働力を相互に援助しあうこと(ゆい)が多かった。一方,機械田植は,代搔きの終わった水田へ苗箱を運び,田植機で植えるため小人数の作業となった。最近では,兼業化の進行とともに育苗も農協などに委託し,田植も請負作業に出す農家が増加してきている。
執筆者:春原 亘
田植機には,作業者が歩きながら操作する歩行型田植機と,乗座する乗用型田植機があるが,いずれもエンジンの動力で走行する。最も広く利用されているマット苗方式田植機の構造は,苗載せ台,苗搔き取り部に一定量ずつ苗を送る苗供給装置,植付けづめで搔き取った苗を田面まで運んで差し込む植付け機構,植付けの深さを一定に保つため,苗が植え付けられる田面を均平にするフロート,エンジンと動力伝達装置,走行部などよりなる。用いられる苗は,苗箱にマット状に栽培された中苗マット苗である。植付け機構は,人が手で田植をするときの動作をまねて,植付けづめが苗マットから4~5本搔き取り,田面から一定の深さの植付け位置まで差し込む一連の動作を,4節リンク機構とカムの運動により実現したものである。植付けづめの形状はピンセットの機能をもたせたはしづめ式や板づめ式が一般的である。走行用車輪は幅の狭い水田車輪が用いられているが,走行耕盤面の凹凸による機体の傾きによって,植付け精度やフロートの働きが低下するのを防ぐため,油圧制御の車輪上下調節装置を備えており,機体を水平に保ちながら走行し,一定の植付け深さが得られる構造になっている。田植機の大きさは植付けできる条数で表され,2~6条植えのものがある。条間の距離は33cmに固定されているが,株間は11~18cmの範囲で調節できる。植付け深さは2~3cm程度である。作業速度は毎秒0.5~0.7mで,歩行型2条用田植機の場合,1時間当り12a程度の面積を植えることができる。
執筆者:岡本 嗣男
旧暦5月を〈さつき〉といい,田植はかつてこの月を中心に行われた。苗は藁(わら)しべで束ね,苗籠などに入れて本田に運ぶ。田植全体の指揮は田主(たあるじ)/(たろうじ)といい,その家の主人が行うのが古い形態であるが,手伝いの中の古参の者がこれにあたることもある。本田は荒代(あらしろ),中代(なかしろ),植代(うえしろ)と数回代搔きを行う。肥料には以前は〈刈敷(かりしき)〉と呼ばれる柴草が用いられた。浅く水を張った田に〈早乙女(さおとめ)〉が1列に並んで,数本の苗を5~6株ずつ横に植え付けていく。植付け方には前進と後退の2通りのやり方がある。田植は〈ゆがみ八石直ぐ九石〉などといわれ,現在では縦横に苗列が通った正条植であるが,古くは田の形に沿った〈回り植〉や〈車田植(くるまたうえ)〉が一般的であった。正条植は明治以前には静岡県下の一部や千葉県の旧香取郡の一部を除いてはみられなかったが,明治30年代に全国的に奨励され普及した。正条植には〈田植綱〉〈田植枠〉〈田植定規〉が用いられる。田植は〈田の神〉の祭りであり,古くは村の共同作業でもあった。このため田植は1日で済ますものといわれ,多数の労働力が必要であった。〈大田植(おおたうえ)〉〈花田植〉などと呼ばれる大規模な中国地方の田植行事は,神祭りと共同作業の要素を今に伝えている。農家の経営形態の変化に伴い〈ゆい〉や〈田植組〉などの相互扶助の組織も生まれた。田植の日取りも干支で決めるなどさまざまな伝承があるが,なかには田植を忌む日もある。とくに播種(はしゆ)から33日目や49日目を苗厄(なえやく)とか苗忌(なえいみ)などといい,この期間は苗を手にすることを忌み,田植をしない習俗はよく知られており,関東では苗が産屋(うぶや)にかかっている期間などという。また特定の日に田植することを禁忌する例も広くみられる。田植初めの〈さおり〉〈さびらき〉〈わさうえ〉,田植終りの〈さなぶり〉〈さのぼり〉〈しろみて〉など,各種の神祭りの行事とともに,田植に関する信仰儀礼は数多い。
田植をしない稲作法もある。〈摘田(つみた)〉〈蒔田(まきた)〉などと呼ばれ,稲もみを直接本田に直まきする方法で,関東地方や南九州,三重・静岡県の一部などで行われた。種もみに肥料を混ぜて播種し,後に稲株の大きさを調整する。種もみを点播する方法と条播する方法があり,前者が一般的である。直播を田植以前の栽培様式とする考え方があるが,近年の研究によれば,むしろ畑作の播種法との関連が指摘され,田植とは別系列の技術と考えられている。
執筆者:大島 暁雄
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イネの苗を本田に移植することで、昔は挿秧(そうおう)ともいった。日本の稲作は初めは直播(じかま)き法であったが、奈良時代から田植による移植栽培が始まり、平安時代に入って一般化して以来、現在まで続いている。外国でもアメリカ、オーストラリア、イタリア、旧ソ連地域などとアジアの熱帯の一部では直播きであるが、それ以外の全世界の水稲作付面積の90%以上の所では田植を行っている。
田植用の苗は苗代で育てられ、大きさは地域や移植の方法により異なるが、葉数で3~7枚のものである。昔からの手植えの場合には播種(はしゅ)後40~50日で葉数6、7枚の苗を用いたが、移植が田植機で行われるようになった現在では播種後約20日で葉数約3枚の稚苗(ちびょう)、または30~40日育てた葉数4~5枚の中苗(ちゅうびょう)が用いられる。田植の時期は、稲作期間の短い北海道・東北地方や、秋の天候が悪くて早く収穫しなければならない北陸地方、および秋の洪水回避を目的とする利根(とね)川沿いの地帯などではできるだけ早期とし、普通4月下旬から5月中・下旬である。一方暖地では秋が長く、二毛作などを行っている都合で一般に晩(おそ)植えで6月中・下旬になる。現在のように早期栽培が一般化しなかった昭和30年代までは、田植期は寒地・暖地それぞれ現行より1か月遅かった。
従前の手植えは、まず苗代で苗取りし、小束にして根の泥を洗い、本田に運んだので根洗い苗とよぶ。本田は耕起し、堆肥(たいひ)や肥料をまき、水を入れて代掻(しろか)き、あぜ塗りなどを行って整地し、浅く水を張って、表土が落ち着き、水が澄むまで1、2日待つ。苗の植え付けには田植定規を転がして植え付け目盛りを表土につけてから植える型付(かたつけ)法や、目盛りのついた縄を張ってこれに沿って植える縄植(なわうえ)法などがあった。また前進して植える方法と後退しつつ植える方法があって、後者は土壌が軟らかい場合におもに用いられたが、これは地域の慣習でもあった。植え付けの配列は条に植えてゆくことが多く、条間と株間が同じ植え方を正方形植え、株間が条間より短いものを長方形植え、とくに半分より短いものを並木植えとよんだ。現在の田植機移植は並木植えである。1株に植え付ける苗数は暖地では3、4本、寒冷地や高冷地にゆくほど多く7、8本とした。また苗の葉数は寒冷地では5、6枚、暖地では6、7枚とやや大きい苗が用いられた。なお、多収穫技術として1株に1本の苗を植える一本植え栽培も行われた。東南アジアや中国では日本の場合より小さい苗を植え付けることもあり、また、より大きい苗を葉先を切って植え付ける方法も行われている。
手植えによる移植は、稲作作業のなかで、稲刈りと並んでもっとも多くの労働時間(10アール当り約30時間)を要し、しかも短期間に植え付けなければならないために、早朝から夜まで雨天でも休めない重労働であった。このため昔から田植は大ぜいの共同作業として行われた。
昭和30年代末ごろから農村では、田植のために一時に多くの労働力を集めることがしだいにむずかしくなり、労賃も高騰した。そこで唱道された機械化直播きが失敗に終わったあと、田植機が登場した。田植の機械化は第二次世界大戦中の農村の労働力不足のころから切望されていた。日本で開発された紐苗(ひもなえ)あるいはマット苗の土(つち)付き稚苗方式の機械が、手植えの5倍以上の能率を発揮したところから、田植機が急速に全国に普及することになった。1975年(昭和50)までには、機械の入ることができない強湿田や傾斜地の棚田などを除いて、ほぼ全国の水田のすべてに用いられるようになった。これにより田植の労働時間は大幅に短縮され(10アール当り1~2時間)、また田植機移植によって早期の植え付けと密植も可能になり、10アール当り収量も手植え時代より増加し、生産性の向上も果たしている。
[星川清親]
サツキ、シツケなどともいい、稲作の過程でもっとも重要かつ労力を必要とする作業の一つである。技術的にはそれぞれの土地で自然条件や水田状況に応じた方法がとられ、各地の田植には特色があった。たとえば東北、中部地方では水口(みなぐち)にヒエを植えて稲苗に直接冷水が当たらないようにしたり、やはり東北地方では苗代田へは田植をしない通(とおし)苗代であったし、また強湿田での田植には田に特別のしつらえをしたり、舟などの用具を使うなど、各地にさまざまな対応がみられる。しかしこうした特色は、明治中期以降の水田改良や品種・技術改良によってしだいに平準化される方向をたどり、能率的な方法になってきている。移植法をみると、古くは一文字植え、ころび植え、廻(まわ)り植え、車(くるま)田植えなど各地にいろいろな方法があり、総じて乱雑な植え方であったが、明治30年代以降には正条植えが普及され、さらに近年は動力田植機が普及し、田植法は全国的に大差がなくなりつつある。
田植は技術的には前記のような傾向にあるが、一方ではこの作業には複雑な労働組織があったり、男女による作業分担が決まっていたり、また田植儀礼にみられるように田の神祭りの要素が強く、さまざまな禁忌を伴っているという注目すべき点がある。稲作では各種機械が出現するまで田植と収穫には多くの労力を要し、家族だけでは足りず、家族外からも労力を求めたため、そこに一種の労働組織ができていた。とくに田植は、水利などの関係から短期間に集中し、そのうえ1日で作業を終えるという心意が伝統的にあり、しかも機械化が遅く、近年まで手植えであったので、わが国の古くからの労働組織の形態をよく伝えていたのである。
この労働組織は各時代の社会経済相と深くかかわり、複雑化しているが、おおむね二つの形態に分けられる。一つは大田植などにみられるような本家、親方百姓の田植に分家や子方が賦役的に参加する形態であり、もう一つはモヤイ、ユイのように近隣の家々が共同、互助的な関係で田植をする形態である。大田植の形態やユイの語はともに平安時代からあり、両者は一方が古型というのではなく、土地の水田経営や家々の関係のあり方によって決まってきたと考えられる。田植には近在の者を雇ったり、他地方からの出稼ぎ者を雇って行うことも各地にあるが、これは江戸時代後期以降急増したことであり、こうした賃労働者の出現によって田植の労働形態はいっそう複雑になっている。
田植は女性が苗取りと移植、男性が代掻(しろか)きと苗の運搬という分業体制をとるのが一般的である。このうち田植を行う女性をとくに早乙女(さおとめ)とよぶのは広くみられる。田植機の普及によってこの伝統的分業は崩れているが、早乙女の原義は田の神祭りの中心となる特定の女性のことで、田植時の作業分担は単なる労働分担ではなく、田植儀礼や田植禁忌とともに田の神祭りとしての性格を示している。
[小川直之]
『『稲作の習俗』(『早川孝太郎全集 七』所収・1973・未来社)』▽『『村落生活――村の生活組織』(『有賀喜左衞門著作集 五』1968・未来社)』▽『倉田一郎著『農と民俗学』(1969・岩崎美術社)』
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…能《賀茂》にこの名の小書(こがき)がついたとき演じられる替間(かえあい)狂言。賀茂明神の神主が五穀豊穣を祈って田植の神事をはじめようと氏子の早乙女たちを呼び出し田植を命じる。神主と女たちは,機知と諧謔に富んだ田植歌を応酬し,神主は朳(えぶり)を持って舞う。…
…移植栽培が一般的な作物にはハクサイなど各種の野菜や水稲,イグサ,サツマイモ,タバコ,イチゴなどがある。水稲,イグサの移植を田植,サツマイモの移植を苗挿しとよぶ。草花の鉢物の移植は鉢上げ,鉢替えとよぶ。…
…
【イネの栽培】
イネの栽培方式は移植栽培と直播(ちよくはん)栽培とに大別される。移植栽培は別途に育苗した苗を,耕起し代搔き・整地した本田に田植する方式であり,直播栽培は耕起・整地した水田または畑に直接播種(はしゆ)して育てる方式である。日本で最も普通に行われている水稲の移植栽培を中心として,以下栽培法の概略を示す。…
…地域の有力農民の門田(かどた)や神田などを,住民が総出で植える田植様式。本来,田植は一日で終えねばならぬとする信仰があり,近世以前は名主(みようしゆ)などの信仰的に重要な田は,一般の田植に先だって田の神を勧請(かんじよう)し大がかりに植えた。…
…田の中央から外へ円形に回りながら植える田植の方法およびこの方法で田植をした田をいう。新潟,岩手,岐阜,富山などの旧家の特定の田に伝承される。…
…田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。…
…田植の終りに田の神を送る祭りで,田植始めに行うサオリに対する。〈さ〉は田植もしくは田の神を意味し,サナブリはこの神が昇天するサノボリの転訛といわれる。…
… 大和朝廷成立以後の正史の類からは,農業政策の動きが知られ,諸記録,編纂物,文芸作品などを総合すると,古代・中世についての農業の姿をほぼ知ることができる。《万葉集》にうたわれるところからは,苗代を作り,田植をし,早生稲(わせ),晩稲(おくて)があり,多くの沼田のあったことが知られる。沢合の湿田が主たる耕地であった時代を想定することができる。…
…ユイは複数の家が組んで,同じ人数の労働力を同じ日数だけ互いに提供しあって同じ作業を行うもので,短期決済による労働力の等量交換に特色があり,各家が多くの労働力を集中的に必要とする場合に採用される。田植のユイがその代表であるが,稲刈りや脱穀など種々の農作業,屋根ふきなどの際にも行われた。ユイを結ぶ相手の家は,ユイが労働力の等量交換であることに対応して,対等な社会関係にある家々に求められるのが普通である。…
※「田植」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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