河上郷
かわのぼりごう
大きく北へ曲流する江川右岸に北東から流下した都治川が合流し、やや上流左岸に南西から流下した奥谷川が合流する江川下流地域。現松川町市村と川平町南川上を中心とする。江川水運の船着場であり、温泉津道と有福道の渡船場でもある地域内交通の要地である。戦国期には「石州中郡川上市」とよばれる市場が存在した(享保二年二月筆写「厳島神社廻廊棟札写」大願寺文書)。その名残は見世棚という小字名や市村という地名に認められる。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「かわのほり 十四丁五反三百卜」とあるが、領主は不明。領主が判明するのは南北朝期からで、河上郷地頭の河上孫三郎入道は建武三年(一三三六)八月に河上郷を北朝方に攻撃されるが、石見南朝方の中心である三隅兼連の後援を得て態勢を立直し、九月には兼連とともに稲用の金剛山(現大田市)に立籠った北朝方の土屋六郎・金子孫五郎・波禰五郎右衛門尉・赤浪朝房らと戦っている(同年九月日「久利赤浪妙行代子息朝房軍忠状」久利文書)。翌四年七月には再び北朝方の小笠原長氏らに攻められるが、同年七月二六日の小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状(庵原文書)によれば、七月一二日に「浜手」において戦ったとあるから、江川の河原で戦闘があったのであろう。この後河上孫三郎は暦応四年(一三四一)八月四日の「宇津々木多和」での戦闘で息子の五郎左衛門尉とともに降伏する(同五年六月一八日「逸見大阿代有朝軍忠状」小早川家文書)。
河上郷
かわかみごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「加波加美」の訓がある。「遠江国風土記伝」が川上村(現小笠町川上)に比定し、「大日本地名辞書」も「川上」の地名から川野村・相草村、すなわち現小笠町の川上から赤土付近とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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