篠村八幡宮(読み)しのむらはちまんぐう

日本歴史地名大系 「篠村八幡宮」の解説

篠村八幡宮
しのむらはちまんぐう

[現在地名]亀岡市篠町篠

旧京街道(山陰道)沿い、篠の南部に森に囲まれて鎮座する。祭神は応神天皇・仲哀天皇神功皇后。旧村社。

創建年代は明らかでないが、縁起(「南桑田郡誌」所引)によれば、延久三年(一〇七一)河内国誉田こんだ八幡(現大阪府羽曳野市)神霊を都守護のため勧請卜部兼延が奉行して鎮座したのに始まるという。

元弘三年(一三三三)足利尊氏が当社に祈願し、兵を挙げて六波羅ろくはら(現京都市東山区)を攻めたことは、「梅松論」「太平記」「難太平記」などによって明らかである。この時、尊氏が当社に納めた願文が社宝として現存する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「篠村八幡宮」の意味・わかりやすい解説

篠村八幡宮 (しのむらはちまんぐう)

丹波桑田郡(現,京都府亀岡市)の神社。篠村荘はもと平重衡の所領で,平氏追討後,源義経の知行となった。このとき,おそらく石清水社から勧請されて篠村八幡宮が成立したと考えられる。義経は同荘を法華山寺開山の円朗に寄進し,以後中世を通じて同寺領となった。《難太平記》によれば,足利尊氏は1333年(元弘3)4月,当八幡の社頭において討幕の挙兵を行い,右筆疋田妙玄願書を書かしめたとあるが,現在同社が所蔵する尊氏の願文は疋田妙玄の筆跡とは明らかに相違し,花押も弱く,当時のものであることが疑問視されている。ただ尊氏の挙兵自体は疑わるべきでなく,その後足利氏は当社に対し社領の寄進,安堵を手厚く行い,醍醐三宝院をして当社別当職を兼任せしめた(《醍醐寺文書》)。なお同社は近世においても亀山藩の手で保護されており,先述の願文も藩主松平忠晴によって偽造された疑いが強い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「篠村八幡宮」の意味・わかりやすい解説

篠村八幡宮
しのむらはちまんぐう

京都府亀岡(かめおか)市篠町(しのまち)篠八幡裏に鎮座。応神(おうじん)天皇、仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(じんぐう)皇后を祀(まつ)る。その創祀(そうし)については不詳であるが、1333年(元弘3・正慶2)4月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が神前に願文(がんもん)を奉じ、官軍に帰属する義旗を揚げたことで一躍有名となり、以後は足利氏の崇敬保護を受け、醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の管理となった。しかし社地が洛外(らくがい)の僻地(へきち)であったため、足利氏衰亡後は社運も衰え、近世では亀岡藩の保護を受ける小祠(しょうし)となった。旧村社。例祭日は10月25日。足利尊氏の願文を踏襲して蔵する。

[二宮正彦]

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