改訂新版 世界大百科事典 「細呂宜郷」の意味・わかりやすい解説
細呂宜郷 (ほそろぎごう)
中世の興福寺領河口荘十郷の一つで,現在の福井県あわら市の旧金津町域。中世の史料によれば郷域の南は高塚,笹岡,西は柿原西方寺,東は宇根,北は吉崎,牛谷に及んでおり,室町期には東南部を上方,西北部を下方と称していた。1287年(弘安10)の〈河口荘田地引付〉には細呂宜郷の総田数227町3反230歩と記され,代官が直接収納する年貢は538石余で,そのほか絹,綿などの負担があった。郷には田頭(田堵)(たと)が年貢を請け負う九つの名があり,荘官として公文(くもん),政所(まんどころ),別当,専当(せんどう)が支配にあたっていた。1360年(正平15・延文5)には88石余の武家兵粮(ひようろう)銭米が課せられているように,しだいに武士の勢力が拡大し,1414年(応永21)の郷の政所,公文にはこの地域最大の土着武士である堀江氏一族が任じられて,郷は堀江氏の代官請負地となっていた。しかしやがて堀江氏は守護代などの圧迫を受けるようになり,56年(康正2)には幕府近習の大館(おおだて)教氏が代官に任じられている。58年(長禄2)に堀江石見守は守護代甲斐氏や朝倉氏と戦うが,堀江一族を結束させることができず敗死する。この合戦ののち郷の下方は幕府御倉奉行籾井(もみい)信久に,上方は大館氏代官のあと興福寺の直接的支配に置かれるが,朝倉孝景と結んだ堀江氏は農民の抵抗を排しながら,応仁の乱前には実質的に勢力を回復していた。朝倉氏領国制下も年貢納入が途絶えたわけではなく,朝倉氏末期の1562-68年(永禄5-11)にも郷の本役銭,夫兵士銭,土雑事銭などを興福寺は徴収している。郷は加賀国との交通の要所に位置し,1460年(寛正1)には細呂宜新関を住人が破却しようとしており,また橋賃も取られていた。さらに郷内に〈今道屋口地子〉が課せられており,宿場町も想定しうる。この今道は近世では細呂木村と称され,この村の橋の近くに関がある宿駅となったが,これらの関や宿駅は中世から存在したことが知られる。
執筆者:松浦 義則
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報