沼田城跡(読み)ぬまたじようあと

日本歴史地名大系 「沼田城跡」の解説

沼田城跡
ぬまたじようあと

[現在地名]沼田市東倉内町・西倉内町

西は利根川、南は同川支流片品かたしな川に臨む沼田盆地の中央部、比高約七〇メートルの急崖、沼田台地上に立地する平山城。北は同じく利根川支流の薄根うすね川に画される。戦国時代初期に国人領主沼田氏の築城と伝えられ、一説では沼田顕泰が享禄三年(一五三〇)から天文元年(一五三二)まで三年をかけて築いたとされる。倉内くらうち城とも称し、「加沢記」によれば、沼田氏が鞍鐙作りの名人であったがためにこの名がついたと伝え、鞍内・鞍打とも記す。また真田氏時代にはかすみ城ともいわれた。現在中心部は沼田公園となっている。

〔戦国時代〕

永禄三年(一五六〇)長尾景虎(輝虎・上杉謙信)の関東進攻にあたり、九月上旬までに明間あきま(現安中市)岩下いわした(現吾妻郡吾妻町)・沼田の諸城はことごとく落城して、城将の北条孫次郎は討死した(一〇月二日正木時茂書状写「歴代古案」所収、「双林寺伝記」など)。この後、厩橋(前橋)城とともに長く上杉氏の関東経略の拠点となり、河田重親・松本景繁・上野家成らの越後衆が在城し、永禄九年前後以来繰返された武田信玄勢の攻勢に抗しながら(同一〇年正月二八日「上杉輝虎書状写」編年文書)、同一二年の上杉・小田原北条の軍事同盟締結に尽力している(三月二七日「沼田番手衆連署書状」上杉家文書など)。天正六年(一五七八)に始まった謙信死後の後継者をめぐる上杉家内紛(御館の乱)では、沼田城番手衆間でも戦闘が行われ、同八年、残った藤田信吉は武田氏に内通して開城し(六月晦日武田勝頼判物写「加沢記」所収)、武田氏の武将真田昌幸が入城した。


沼田城跡
ぬまたじようあと

[現在地名]南足柄市沼田

明神みようじんヶ岳(一一六九・一メートル)の東尾根裾先端の比高三〇メートルのしろ山にある。波多野氏一族の沼田氏が築いたと伝承され、御引渡記録(県史四)には「大森寄西庵取立」と伝え、「風土記稿」には大森氏の城跡とするが、近年までその位置や遺構はまったく知られなかった。

昭和四八年(一九七三)に相模国足柄上郡沼田城改之絵図(安藤家蔵)が発見されて以来、跡地の確認と絵図に描かれた遺構のすべてが遺存していることが判明した。尾根の西側の付根で掘切って区画され、東・北・南の三方は湿田となっており、湿田面からの比高約三〇メートルの最頂部には削平された東西八〇メートル、南北九〇メートルの主曲輪が築かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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