日本大百科全書(ニッポニカ) 「足柄平野」の意味・わかりやすい解説
足柄平野
あしがらへいや
神奈川県西部、酒匂川(さかわがわ)の沖積平野。酒匂平野ともいう。西は箱根外輪山の裾野(すその)、北は丹沢山地の西部、東は大磯丘陵(おおいそきゅうりょう)の西斜面で限られ、ほぼ長方形をなす。中央部を南下する酒匂川は富士火山から、支流の河内(かわうち)、四十八瀬(しじゅうはっせ)の両川は丹沢山地からの流出土砂を運び込んで扇状地をつくり、その傾斜は北部の扇頂部に近いほど急である。東部の松田国府津(こうづ)断層崖(がい)下にも小扇状地が並ぶ。早くから開け、縄文、弥生(やよい)、古墳時代の遺跡の分布は県内でもっとも密である。南部の三角州には条里制水田の遺構がみられ、千代(ちよ)廃寺跡も発掘され、古東海道も通っており、師長国造(しながくにのみやつこ)(磯長国造)の勢力圏の中心地域と推定されている。中世には、荘園(しょうえん)開発が進められ、松田、河村、大井、曽我(そが)、成田(なるだ)、大友などの諸荘があげられ、現在、周辺の丘端部を中心にいくつもの城館跡が残される。戦国時代には大森氏が駿河(するが)東部から小田原へ入り、ついで後北条氏(ごほうじょううじ)が進出してくると、小田原の至近地域のため、在地土豪は小田原衆に組み入れられ、城下の要務にあたっていた。とくに上杉、武田両氏、また1590年(天正18)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めにはこの平野の住民も軍役に出されることが多かった。近世は小田原藩領となったが、この扇状地平野では治水と灌漑(かんがい)が進み、周辺の入会(いりあい)山の採草地(自給肥料源)利用も行き渡って米が増産され、平野産の「西郡米(にしごおりまい)」は酒造米の優品とされるに至った。また、東部の山麓(さんろく)扇状地のウメを加工した梅干し、相模(さがみ)湾の沿岸漁獲物を加工したかまぼこ、箱根の林材利用に始まる箱根細工なども、近世に入って小田原での地場産業に発展し、現在の活況の基が築かれた。足柄平野はまた西部の箱根外輪山脚部(南足柄市)や、扇端部(小田原市北部)の湧水(ゆうすい)による水の豊富さでも知られ、昭和初期からは写真材料をはじめ化学繊維や機械工業が勃興(ぼっこう)する基盤となっている。
[浅香幸雄]