波野村(読み)はのむら

日本歴史地名大系 「波野村」の解説

波野村
はのむら

[現在地名]本郷村大字波野

玖珂郡北部、奥山代おくやましろの中心本郷村の南に位置し、南桑なぐわ(現美川町)の北、添谷そえだに(現美川町)の東、下畑しもはた(現美和町)の西に隣接する山村。村内の東北から西南へ本郷川が流れ、両岸の所々に小集落が散在する。萩藩領奥山代宰判所属。

正平一四年(一三五九)の日付をもつ村内仲光ちゆうこう寺の古仏光板銘に「奉寄集山代庄坂上波野畑安養山仲光寺堂敷事(中略)正平十四年十二月十四日、波野畑政所右近尉秦貞末奉」とある。また「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)にも、山代八ヵ村のうちに「波野畑」として記される。村名の由来は「注進案」に「当村は南受の陽地にて、往古田圃開発も早く相成、春花も早く開き候まゝ、花咲原と庶人申あへりしが、追々剪棘平場して一村立と相成りし時、惣名花色と唱へ、万葉に波那と書きしが、後に波那はな波野はのと書誤りて、中古より波野村と唱へ候由申伝候」とある。


波野村
はのむら

[現在地名]田布施町大字波野

宿井しゆくい村の東、行者ぎようじや(一九四・八メートル)の南麓に広がる。南部は田布施川に沿った平地。上関宰判に属した。

和名抄」に記される熊毛郡の郷名のうちに「波濃」がある。中世羽野はの庄のうちに含まれたと思われる。

村名は慶長一五年(一六一〇)検地帳みえ、「地下上申」には大波野おおばの・波野で上申され、その他小行事村も含まれ、各々石高・戸口を記す。「注進案」では大波野村・波野村の二村に分裂、それぞれ独立村として記載される。


波野村
なみのむら

[現在地名]波野村波野・新波野しんなみの

現波野村の中央部から南部の地域で、東は赤仁田あかにた村・中江なかえ村、西は坂梨さかなし(現一の宮町)、南は山崎やまさき村と接する。中世には東郷南坂梨みなみさかなし郷を本郷とする釜廻かまめぐり・山崎・楢木野ならきの御沓みくつ永仁田ながにたなどの「野里」にあたる村々で、中世末期に波野と総称されるようになったとみられる。天文一四年(一五四五)一〇月二〇日の阿蘇社対面所造営料木切符次第写(阿蘇家文書)などには「南坂梨郷之内上波野三十町」とある。当村の近世の小村である釜廻および管井すげのい(菅井)が、貞和四年(一三四八)一一月七日の南坂梨郷屋敷得分注文案(同文書)にみえ、藍・苧・皮の代としてそれぞれ七八〇文・九六〇文、ほかに稗・豆などの得分が記される。


波野村
なみのそん

面積:七一・四六平方キロ

阿蘇郡東部に位置し、東は大分県竹田たけた市・同県直入なおいりおぎ町、西は一の宮いちのみや町、北は産山うぶやま村、南は高森たかもり町と接する。阿蘇外輪山東部の標高約七〇〇―八五〇メートルの火山灰に覆われた高原で、西から東に緩やかに傾斜し波状に起伏する。楢木野ならきの地区が村の中心地。産業は農業が中心で、高冷地を利用した野菜栽培と原野を利用した褐毛和牛(肥後の赤牛)の飼育が主である。火山灰地帯のため水利に恵まれず耕地大部が畑である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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