海津村(読み)かいづむら

日本歴史地名大系 「海津村」の解説

海津村
かいづむら

[現在地名]マキノ町海津

高島郡東端の琵琶湖畔にあり、東は浅井あざい大浦おおうら(現伊香郡西浅井町)、北は小荒路こあらじ村、西は西浜にしはま村。貝津・萱津とも記された。日本海から越前敦賀で陸揚げされた荷物が、七里半しちりはん越を越え、海津から船に積まれた。琵琶湖舟運の北の拠点の一つで、近江から北陸への玄関口であったため、古くから多くの人々が通行している。陸路の北陸への街道(西近江路)の宿でもあった。「永久四年百首」で藤原仲実が「あらち山雪げのそらになりぬれはかいつの里にみぞれふりつつ」と詠んでいる。寿永二年(一一八三)四月、木曾義仲追討の平氏軍は海津を通って荒乳あらち中山なかやま天熊てんのくま国境くにざかいを越え敦賀へ向かっており、平経正は海津浦より船で竹生ちくぶ(現東浅井郡びわ町)に参詣した(「源平盛衰記」巻二八)。鎌倉時代中葉成立の「古今著聞集」巻一〇に「近江国かいづに、金といふ遊女ありけり」とあり、すでに当時遊女が存在するほどの湊であった。文永七年(一二七〇)の「勧学講条々」によれば、延暦寺領越前国藤島ふじしま(現福井市)から出された勧学講米は、敦賀津で江丁によって陸揚げされ、馬借によって海津まで運ばれた。建武三年(一三三六)一〇月、足利尊氏に京を追われた新田義貞は、恒良親王・尊良親王を奉じ七千余騎を率いて同月一一日に塩津しおつ(現西浅井町)・海津に着岸、七里半越で越前敦賀を目指したが、山中やまなか峠を越前守護足利(斯波)高経の軍勢に塞がれたことを聞き、木目きのめ(木ノ目峠)を越えている(「太平記」巻一七北国下向勢凍死事)


海津村
かいづむら

[現在地名]高田町海津

田尻たじり村の北、飯江はえ川沿岸にある。山門やまと郡に属する。貝津とも記される。康永二年(一三四三)七月四日の荒木家有軍忠状(近藤文書/南北朝遺文(九州編)二)に「竹井萱津城」とあり、竹井たけのいと海津は近接していることから、「萱津」は海津のことと思われる。文明―明応(一四六九―一五〇一)の間に大友政親から田尻遠江守(恒種)に与えられた三池・山門両郡内三〇六町に含まれていたとみられ(一二月一三日「大友政親判物」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、政親の筑後守護代田原親宗の花押のある年欠一〇月一七日の田尻氏知行坪付(同上)に「かい津山門郡之内」六六町がみえる。大友氏に認められた地として田尻氏が知行し(永正五年一一月三日「大友義長袖判知行坪付」同上など)、天正一一年(一五八三)頃のものとみられる年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(同上)にも「かいつ」が記される。


海津村
かいづむら

[現在地名]氷見市海津

仏生寺ぶつしようじ川と神代こうじろ川の間にあるデルタ十二町じゆうにちよう地区の水田地帯の中央部に位置し、北は川尻かわしり村、東は耳浦みみうら村、南西布施ふせ村。集落は耳浦川の支流海津川の岸辺にある。天正七年(一五七九)二月一九日の伊勢神宮への堀実連寄進状(徴古館蔵文書)に「越中国射水郡耳浦内海津村則公用六十俵之所、末代可為御神領者也」とみえる。正保郷帳の高一四七石余、田方九町七反余・畑方一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一四五石・免六ツ一歩、小物成は猟船櫂役五匁、網役三匁(うち二匁出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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