〈つねなが〉ともよむ。後醍醐天皇の皇子。母は阿野公廉の女,皇太后藤原廉子(阿野廉子)。公家一統の親政により建武の中興をはかる後醍醐天皇は,両統迭立を否定して1334年(建武1)恒良親王を皇太子に立てた。しかし翌年足利尊氏らの離反で建武体制が崩壊したばかりか,尊氏らの反攻にあって天皇・皇太子らは苦境に立ち,36年(延元1・建武3)皇太子は兄尊良親王(1311-37)とともに新田義貞に擁されて越前金崎城に入城して北陸経営に当たった。だがその城も37年足利勢に攻められて兄親王は自害し,恒良親王は捕らえられて京都に護送され,1年後の38年4月没した。毒殺と伝えられている。ときに14歳であった。
執筆者:米田 雄介
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後醍醐(ごだいご)天皇の第六皇子。「つねよし」とも読む。母は阿野廉子(あのれんし)(新待賢門院(しんたいけんもんいん))。元弘(げんこう)の変(1331)後但馬(たじま)に配流され、守護太田守延(もりのぶ)の家に幽閉された。1333年(元弘3・正慶2)守延に奉じられて挙兵、千種忠顕(ちぐさただあき)の軍に合流して六波羅(ろくはら)を攻めた。翌年建武新政となって皇太子となった。翌々年冬新政が崩壊、後醍醐天皇は38年(延元3・暦応1)挙兵の根拠地を築こうとして、恒良親王に尊良親王、新田義貞(にったよしさだ)、洞院実世(とういんさねよ)らをつけて越前(えちぜん)に下向させた。しかし越前金ヶ崎(かねがさき)城(福井県敦賀(つるが)市)で激戦のすえ敗北、毒殺されたといわれている。
[黒田弘子]
(森茂暁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…旧官幣中社。後醍醐天皇の第1皇子尊良(たかよし)親王と第6皇子恒良(つねよし)親王をまつる。新田義貞に奉ぜられた両親王は,1337年(延元2∥建武4),金崎城によって足利方と戦って敗れ,尊良親王は自害,城を逃れた恒良親王も翌年京都で毒死した。…
※「恒良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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