デジタル大辞泉
「湯沢町」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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湯沢町
ゆざわまち
[現在地名]湯沢市荒町・内町・内館町・佐竹町・北荒町・大工町・吹張一丁目・同二丁目・御囲地町・田町一丁目・同二丁目・大町一丁目・同二丁目・柳町一丁目・同二丁目・表町一―四丁目・前森一―四丁目・清水町一丁目・同二丁目・鉦打沢・中野々目・大島
雄物川が横手盆地に流れ込む扇状地東の河岸段丘上にある。町の西と北が横手盆地に連なり、東は奥羽山脈の山すそ。羽州街道に沿う秋田南部の交通の要所で、北は岩崎村・杉沢新所村、南は関口村、西は雄物川を隔てて山田村・深堀村に接する。
慶長七年(一六〇二)佐竹氏が久保田に入部し、湯沢には所預として佐竹義種が入る。この時の城は本丸・二の丸・空堀・天主台・馬場、馬洗の池をもつ山城であった。元和五年(一六一九)一〇月一五日の梅津政景宛佐竹義宣書状(秋田藩家蔵文書)に「秋田仙北の城々破却候様に相究候間、正月松過候はば、先城々の家を破候様に可申理候(中略)湯沢は、山に居候分をば、無残為破、下へおろすべし」とあるように、翌六年三月には湯沢城が破却され(「梅津政景日記」元和六年三月一二日条)、佐竹氏は山の下に居館を構えた。天保九年(一八三八)の湯沢町巡見使答書覚に「御国替之頃者御城ニ被成御座候、其後廿年斗り過候而今の御屋敷江御引移と承伝申候、御城ニも御城代ニも無之御所領りニ御座候、御役馬五疋御座候」とあり、所預佐竹南家の存在を伝える。
〔町の配置〕
近世の町名について、享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)は、「正保、湯沢城廻、寛文・貞享・元禄、湯沢町、宝永・享保、湯沢城廻村」と記す。
同一三年の湯沢町絵図(秋田県庁蔵)によれば、佐竹南家の居館である淡路屋敷は東方に山を負い、南と北に土手を築き、西は畑地を隔てて町人町である外町と接する。この絵図にはないが、南家日記(湯沢市立図書館蔵)安永四年(一七七五)七月二八日条には、「柳町東側屋敷裏、御内町屋敷の境古堀(中略)先年之通り掘起」とあり、堀の存在が記される。淡路屋敷の周りには内曲輪があり、九軒の陪臣屋敷があった。陪臣屋敷を目指して南と北から道が通じ、内曲輪と南北の侍屋敷町の間に木戸が設けられていた。内曲輪の北には荒町があり、その北に土手を隔てて南家家中の徒士を中心とした大工町があった。大工町の北に川を隔てて徒士・中間・足軽屋敷の新町があり、大工町の東に金池町、荒町の東に根小屋町があった。
湯沢町
ゆざわまち
面積:三五四・九六平方キロ(境界未定)
魚野川・清津川の最上流部、南魚沼郡の南端に位置し、広大な山岳地帯を擁する。北は飯士山(一一一一・八メートル)を境に塩沢町、東は茂倉岳(一九七七・九メートル)・谷川岳(一九六三・二メートル)をはじめ高山並立して群馬県利根郡水上町、南は万太郎山(一九五四・一メートル)・大源太山(一七六四・一メートル)・上ノ倉山(二一〇七・八メートル)を境に群馬県吾妻郡中之条町および同県利根郡新治村・水上町、西は苗場山(二一四五・三メートル)・佐武流山(二一九一・五メートル)などを境に中魚沼郡中里村・津南町および長野県下水内郡栄村に接する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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湯沢〔町〕
ゆざわ
新潟県南東部,魚野川の上流域で,群馬・長野両県に接する町。 1955年湯沢,神立,土樽,三俣,三国の5村が合体して町制。中心集落の湯沢は江戸時代は三国街道沿いの宿場町,湯の町として栄え,上宿,下宿に分れていた。 1931年清水トンネル (上越線) ,61年三国トンネル (国道 17号線) の開通で交通が便利になり,保養,観光,スキーの町として発展。川端康成の名作『雪国』の舞台で知られる。付近に苗場国際スキー場をはじめ,土樽,中里,岩原,湯沢などスキー場,温泉が多い。県境には谷川岳,三国山,苗場山などがそびえ,町域の一部は魚沼連峰県立自然公園,上信越高原国立公園に属する。上越新幹線,関越自動車道が通り,越後地方と東京を結ぶ交通の拠点となっている。面積 357.29km2(境界未定)。人口 7767(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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