清洲藩(読み)きよすはん

藩名・旧国名がわかる事典 「清洲藩」の解説

きよすはん【清洲藩】

江戸時代初期、尾張(おわり)国春日井郡(かすがいぐん)清洲(現、愛知県 清須市)に藩庁をおいた親藩(しんぱん)。1582年(天正(てんしょう)10)の本能寺の変織田信長(おだのぶなが)が横死(おうし)すると、織田氏ゆかりの清洲城羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣(とよとみ)秀吉)が主導する清洲会議が開かれ、信長の孫の三法師(のちの織田秀信(ひでのぶ))を信長の後継者と決め、信長の次男信雄(のぶかつ)は清洲城主にすえおかれた。90年、信雄は秀吉によって下野(しもつけ)国に追われ、代わった秀吉の甥の豊臣秀次(ひでつぐ)も、95年(文禄4)に謀反の罪で切腹させられた。代わって福島正則(まさのり)が城主となったが、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功をあげ、徳川家康(とくがわいえやす)から安芸(あき)国 広島藩へ加増移封(いほう)された。代わって家康の4男松平忠吉(ただよし)が52万石で入り清洲藩が成立した。しかし忠吉は、07年に無嗣(むし)のまま急死、清洲藩は廃藩となった。その後尾張には家康の9男義直(よしなお)が入るが、新しく愛知郡名古屋城を築城して尾張藩名古屋藩)を立藩、清洲城は破却された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清洲藩」の意味・わかりやすい解説

清洲藩
きよすはん

江戸初期、尾張(おわり)国(愛知県)清洲周辺を領した藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、徳川家康の四男松平忠吉(ただよし)が清洲城主(52万石)に封ぜられたが、7年後に没し、異母弟徳川義直(よしなお)が入封。義直の名古屋城(尾張藩)移転により藩名消失。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清洲藩」の意味・わかりやすい解説

清洲藩
きよすはん

江戸時代初期,尾張国 (愛知県) 春日井郡を領有した藩。慶長5 (1600) 年,家康の子松平忠吉が 52万石で入封。嗣子なく,弟義直が継ぎ,同 12年名古屋へ移り,除封,廃藩。

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