名古屋藩(読み)なごやはん

百科事典マイペディア 「名古屋藩」の意味・わかりやすい解説

名古屋藩【なごやはん】

尾張(おわり)名古屋に藩庁を置いた親藩三家の一つ。尾張藩とも。藩領は,尾張一国と美濃信濃三河・近江(おうみ)・摂津(せっつ)の一部を含む大藩。藩高は61万9500石。初め1600年徳川家康の四男松平忠吉が52万石の清洲(きよす)城主となるが,尾張徳川家の祖となったのは1607年入封の家康の九子義直。1610年義直は名古屋城を築き,士民を名古屋に移す。8代将軍は同じ御三家の一つの紀伊の吉宗がなったため,尾張藩主宗春は幕府反感をもち享保改革に反対し,名古屋には独特の華美な風俗が栄えた。1849年14代藩主となった慶勝は名君であり,藩政改革,幕末政局に活躍し,維新政府の議定や名古屋藩知事を務めた。支藩に美濃高須藩がある。
→関連項目鸚鵡籠中記尾張国名古屋城福島

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「名古屋藩」の解説

名古屋藩
なごやはん

尾張藩とも。尾張国名古屋(現,名古屋市)を城地とする大藩。御三家の筆頭。1607年(慶長12)清洲藩主である徳川家康の四男松平忠吉が没し,代わって九男徳川義直が尾張一国に封じられ,10年名古屋に城地を移して成立。以後16代にわたる。所領高は数度の加増で表高61万9500石余となり,地域は尾張一国のほかに美濃・三河など4国内に及んだ。信濃国木曾地方も無高の藩領で,豊富な木材資源が藩財政を助けた。支藩は高須藩。幕末に付家老成瀬氏の犬山,竹腰(たけのこし)氏の今尾が分離して立藩した。初代義直は1645年(正保2)に高概(たかならし)と藩士知行所の総割替えを実施し,2代光友も世禄制廃止などの諸改革を実施した。7代宗春の行った積極的な城下繁栄策は財政を悪化させ,後代,財政再建などの藩政改革をもたらした。9代宗睦(むねちか)のとき,代官の管地駐在制など地方(じかた)に対する改革を行い,藩校明倫堂を創建するなど儒学を利用した精神面の統治もはかった。幕末期には藩内で佐幕派と勤王派の政争がうまれたが,青松葉事件によって佐幕派は一掃され,藩論は討幕勤王に統一された。詰席は大廊下。廃藩後は名古屋県となる。

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デジタル大辞泉プラス 「名古屋藩」の解説

名古屋藩

尾張国、尾張藩の別称。名古屋(現:愛知県名古屋市)を本拠地としたことから。徳川御三家のひとつ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「名古屋藩」の意味・わかりやすい解説

名古屋藩
なごやはん

尾張藩

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藩名・旧国名がわかる事典 「名古屋藩」の解説

なごやはん【名古屋藩】

尾張藩(おわりはん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「名古屋藩」の意味・わかりやすい解説

名古屋藩
なごやはん

尾張藩」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の名古屋藩の言及

【尾張藩】より

…藩祖義直以後光友,綱誠(つななり),吉通,五郎太,継友,宗春,宗勝,宗睦(むねちか),斉朝,斉温(なりはる),斉荘(なりたか),慶臧(よしつぐ),慶勝,茂徳(もちなが),義宜(よしのり)と続き,尾張徳川家の当主は〈尾張殿〉と公称された。1869年(明治2)6月義宜は版籍を朝廷に奉還し,名古屋藩知事を拝命した。260年以上にわたる藩政史で注目されるのはまず寛文期(1661‐73)。…

※「名古屋藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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