清浄心院(読み)しようじようしんいん

日本歴史地名大系 「清浄心院」の解説

清浄心院
しようじようしんいん

[現在地名]高野町高野山

赤松せきしよう院の東にある。本尊は二十日大師。入定を明日に控えた承和二年(八三五)三月二〇日、空海が自ら彫刻し、像背後に「微雲管」の三字を書いた像と伝える。別格本山。なお所在地一帯を当院の名にちなんで清浄心院谷とよぶ。開基は空海といい、当院院譜によればもと喜多きた坊と称していたが、勅により清浄心院と号し、その後平清盛の子宗盛が堂宇を再建したという。鎌倉時代の信堅院号帳には「八島大臣殿御建立也、実名宗盛」とある。「平家物語」巻一〇によれば、嵯峨往生おうじよう(跡地は現京都市右京区)に出家遁世していた滝口入道は横笛への思いを断ち切るために高野へ登り、当院に住したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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