清源寺跡(読み)せいげんじあと

日本歴史地名大系 「清源寺跡」の解説

清源寺跡
せいげんじあと

[現在地名]玉名市高瀬 新町

高瀬たかせ東部の保田木ほたき丘陵地の東南端、保田木神社の南側に位置し、江戸時代に高瀬町奉行所の南面にあった臨済宗寺院。高瀬山と号し、本尊薬師如来。正平二年(一三四七)創建と伝え、開山固山一鞏。初め京都東福とうふく寺末、のちに南禅なんぜん寺末となる。「一統志」は江崎入道崇正の子崇玄の創建とし、「国誌」には菊池(高瀬)武尚の創建を伝える。しかし、中世初期に高瀬を治めた紀大野氏の祖といわれる紀国隆の法名が「清源」であるので、大野氏が創建し、当初は清源寺せいげんじ(現玉名郡長洲町)にあったと推定される。

貞和五年(一三四九)二月八日、壱岐守輔重は自身菩提のために重代相伝の私領の「東限火神木堀長福寺」「西限堀底」「南限大道」「北限田之岸」の地を当寺敷地として寄進(「壱岐守輔重寄進状」清源寺文書)、正平九年には四至から同一地と推定される地を菊池武尚が敷地として寄進している(同年四月四日「菊池武尚寄進状」同文書)


清源寺跡
せいげんじあと

[現在地名]国府町奥谷

檜葉谷ひばだににあった黄檗宗寺院。元禄六年(一六九三)池田光仲の死去に際し廟所として建立された。光仲の菩提は仮殿河原けでんがわらで葬送後、境内に葬られた。光仲を開基とし、開山は鳥取興禅こうぜん寺三世千岳。初めは香華院千岳せんがく庵と称したが、元禄一〇年伯耆国久米くめ定光じようこう(現倉吉市)末清源寺の寺号を受け光仲山清源寺と改称したという。なお清源寺は嫡子綱清の法号にちなむもの。興禅寺末寺寺院台帳(鳥取県史)によれば奥谷おくだにには末庵の円通えんつう庵があった。同庵は開山千岳の隠居拝領地で開基は円通庵(落合久之丞)。興禅・清源両寺とも池田家菩提寺で当寺の歴代住職は興禅寺住職が兼ねた。営繕は興禅寺に願出て行われ、廟内の建物は御上普請とされるなど厳重に管理された(「国府町誌」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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