興禅寺(読み)こうぜんじ

日本歴史地名大系 「興禅寺」の解説

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]鳥取市栗谷町

栗谷くりたにの中ほど、栗谷川北岸の山裾にある。龍峯山と号し、黄檗宗。本尊は釈迦如来鳥取藩池田家の菩提所であった。

〔龍峯寺時代〕

龍峯寺歴世考(鳥取県史)などによれば、創建は天正一二年(一五八四)にさかのぼる。同年の小牧・長久手の戦で、美濃大垣おおがき(現岐阜県大垣市)の城主池田信輝(恒興)とその長男之助が戦死した。之助の乳母津田市之助女(のちの広徳院)により美濃岐阜城下(現同県岐阜市)に之助の菩提のため建立された龍峯山広徳こうとく寺が当寺の起源である。開山は京都妙心寺湖叔宗永。天正一八年池田家を継いだ信輝次男輝政が三河吉田よしだ(現愛知県豊橋市)に移った折、広徳寺もこれに従った。文禄四年(一五九五)の湖叔遷化後法嗣朔庵宗方が住持を継いだが、その後しばらくして住持不在となって塔頭天沢てんたく院・梅岑ばいしん院が監寺を勤めたといい、まもなく美濃加納大宝かのうだいほう(現岐阜市)四世菊潭祖采を住持に迎えた。このとき輝政は広徳寺を菩提寺に定め、寺号を広徳山龍峯寺に改めて菊潭を開祖とした。

慶長五年(一六〇〇)輝政は関ヶ原の合戦の功績により播磨五二万石を与えられ姫路に移った。龍峯寺もこれに従い、姫路城南の男山おとこやまに移った。同一一年には寺領一〇〇石を寄進されている。輝政の嫡男利隆は輝政の前夫人中川清秀女を母としている。のちに輝政は徳川家康の六女督姫を継室に迎えて五男二女をもうけており、その所生の次男忠継が五歳で備前二八万石を領していた。輝政生前はこの幼い弟のために利隆が備前岡山で国政を代行しており、慶長一四年には京都妙心寺護国院から太華宗仞を招き岡山に法源ほうげん寺を創建した。同一八年輝政が没すると利隆は姫路に戻り、岡山法源寺から太華宗仞を招いて国清こくせい寺を創建、輝政の菩提寺とした。一方、龍峯寺は忠継に従って岡山へ三度目の移転をし、龍峯寺二世を継いでいた菊潭の法嗣棟叔玄充は元の法源寺に入った。慶長二〇年忠継が一七歳で没するとその弟忠雄の指示により忠継の法号龍峯寺殿をとって法源寺を龍峯寺に改称した(「鳥取県史」所引「池田家類纂」)。龍峯寺殿は本来輝政におくられるべき法号であったが、嫡男利隆が帰依した法源寺太華宗仞と忠継の帰依した龍峯寺棟叔玄充は法系が異なり、また利隆と忠継が異腹の兄弟であったことから、両者をめぐる家臣間の確執が輝政葬儀で導師を誰にするかというかたちで顕在化した。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]赤城村三原田 八幡峯

三原田みはらだ城遺構内にある。天台宗、三原山蓮乗院と号する。寺伝によれば貞観元年(八五九)近江比叡山無動寺の相応の開基で、建久三年(一一九二)栄西が禅宗に改めたという。その後衰微したが、室町期に土豪永井出羽守(三原田義高とも伝える)が再興し檀那となった。「松陰私語」に文明九年(一四七七)「明純御父子、神水之御座無御出御、依之御父子共儀絶、号西国行脚御出行、三原田興善寺迄宗悦舎弟金龍和尚送着」とあり、父家純に義絶され追放された岩松(新田)明純が横瀬国繁(宗悦)の弟金龍和尚に送られて立寄ったことが知られる。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]高崎市下横町

下横しもよこ町の南端にある。曹洞宗で、白竜山と号し本尊は釈迦如来。近世には境内と墓地の間を高崎城の遠堀が東西に通り、遠堀の水量に加えて高崎宿内の堰や生活用水の落水も加わり、堀も深く水量もあった。「更正高崎旧事記」に載る由緒によると、治承元年(一一七七)の開創で、開山は天台僧良尋、開基は新田義重。正安三年(一三〇一)臨済僧一山が再興開祖となり、新田氏光が再興したという。当時は東谷院と号したが、和田氏が和田わだ城築城後伊豆の和田にある先祖の三浦和田氏の菩提寺興禅寺を移して東谷院興禅寺と号した。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]信州新町牧田中

牧之島村の東方山麓にある。永平えいへい寺末で小本寺格で末寺が五ヵ寺あって神峰山と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、正和二年(一三一三)まき城主香坂宗清が円覚えんがく寺開山祖元の弟子見山崇喜(本朝高僧伝)を招じて創建したと伝える。臨済宗であった。

五世道詮の代、康応二年(一三九〇)三月吉日の鐘銘写(興禅寺蔵)によると、香坂宗清大梵鐘を鋳造し永三百文を寄贈した。一一世来応の時、明応(一四九二―一五〇一)の頃兵火にかかり衆僧離散して寺運衰えた。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]御荘町平城

観自在かんじざい寺の西方に位置し、やや小高くなった山麓にある。赤岸山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。応仁三年(一四六九)六月と記された篠山観世音ささやまかんぜおん寺の観音堂脇立書付の写に「興禅寺」とみえるのが寺名の初見である。

「宇和旧記」によると応仁元年開基で、開山は直心宗柏となっており、叡山から赤岸殿という預僧が下着した時に建立されたので赤岸山とよんだと記される。しかし「諸宗勅号記」によると「全嗣子直心」の語がみえ、開山についての真偽は明らかでない。同書によると全盈嶽は永正一九年に仏覚法昌禅師号を賜っており、当寺の隆盛を思わせる。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]宇都宮市今泉三丁目

川に架かるあずま橋の東側にあり、神護山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。正和三年(一三一四)宇都宮貞綱の開基、開山は真空妙応、かつて寺領一四八石をもつ大寺であったが、宇都宮氏改易とともに廃れ、慶長八年(一六〇三)奥平家昌により再建された。中興開山は物外。朱印高三七石。境内にあった正眼庵は貞綱息の公綱の法号によるもので、別の一寺であったが、宇都宮氏改易により当寺に移したという。正徳四年(一七一四)には寺内に鎮守天神社、塔頭三・道心寮一・空寮一があり、門前家数五四、公儀御目見得の際は独礼とある(宇都宮史)

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]春日町黒井 小山

しろ山南麓近くにある。大梅山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。黒井くろい城主赤井氏との関係が深く、現在地は赤井直正の旧下屋敷跡にあたる。直正の夫人が関白近衛家の娘であったことなどから、近衛家をはじめ多くの寄進を受けた記録が残るという。寛永五年(一六二八)御油ごゆ(現氷上町)円通えんつう寺一二世融山の開山と伝えるが、法道の開基とする説もある。初めは誓願寺と称し、現在地より下のひがし町にあったという。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]津島市今市場町

延享五年(一七四八)の村絵図では名古屋城下・熱田への道しも街道に沿った今市場東いまいちばひがしきりの地にあたる。宝珠山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来坐像。

「府志」によると永徳元年(一三八一)万山寿一の創建で、天正一三年(一五八五)の大地震により諸堂は廃没したという。天保一二年(一八四一)頃の様子を「尾張名所図会」は「されど今も当郡のうちに末寺十箇寺ありて、山門の額に海東古禅林としるし、頗る殊勝の梵刹なり」と伝える。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]桜川村古渡

小野おの川右岸の台地上にある。長松山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、もとは真言宗で源頼政の開基という。その後北条政子が鹿島神宮参詣の途次に立寄り、荒寺だったため侍女二人を寺に残し、後鳥羽上皇恩賜と伝える延命地蔵を寄進して地蔵堂を建立と伝える。元仁元年(一二二四)寿福じゆふく(現神奈川県鎌倉市)の東岳円光を中興開山として、臨済宗に改宗するが、江戸幕府の指示で、正保―慶安年間(一六四四―五二)に曹洞宗に改宗し、古渡ふつと村内に二一石余の朱印地を得た(各村旧高簿)

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]飯田市上久堅 中宮

神之峰かんのみねの山麓中宮なかみやの原の中央に位置する。曹洞宗、神応山と号す。本尊は釈迦如来。知久十八ヵ寺の一つ。

寺伝によれば応永年中(一三九四―一四二八)に知久頼季が知久ちくに開いたといわれ山号を神応山と称したとされるが、それは誤りとみられ、知久氏の総領職知久俊範(知久氏系図では頼昭)であったと推定される。

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]木曾福島町門前

長福ちようふく寺とわずか一〇〇メートルを隔てて、同じ向城むかいじようにある。臨済宗妙心寺派。山号を万松山といい、木曾信道が木曾義仲追善供養のために永享六年(一四三四)に建立したもので、開山は円覚大華(木曾福島町史)。本尊は釈迦如来。文正元年(一四六六)木曾家豊が鋳造した梵鐘の銘には「美濃州慧那郡木曾庄万松山興禅々寺」とあったという(「鐘銘写」興禅寺蔵)

興禅寺
こうぜんじ

[現在地名]東吉野村大字中黒

上中黒かみなかぐろにある。白雲山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。もとは真言寺院であったが、元禄年中(一六八八―一七〇四)興聖こうしよう(現京都府宇治市)の梅峯竺信によって改宗したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「興禅寺」の解説

興禅寺

(長野県上水内郡信州新町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

興禅寺

(長野県木曽郡木曽町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android