奥谷村(読み)おくだにむら

日本歴史地名大系 「奥谷村」の解説

奥谷村
おくだにむら

[現在地名]松江市奥谷町・東奥谷町ひがしおくだにちよう大輪町だいりんちよう

松江城下北堀きたほり町・石橋いしばし町の北に位置し、村内のかなりの部分に城下から続く侍屋敷や町家の町並が形成されている。西は春日かすが村・黒田くろだ村、北は法吉ほつき村。中世は末次すえつぐ保・末次庄、あるいは一部が法喜ほつき庄に含まれていたとみられる。「雲陽大数録」に「奥谷村旧記古老ノ云ク、今二ノ丸ヨリ奥谷赤山ヘ続キ、是ヲ宇賀山ト云ウ、城ヲ築ム為、赤山ヲ断切川ト成シ陽山トシ、此土ヲ以テ田町等ノ泥沢ヲ埋メ、地形ヲ成スト云ウナリ」とみえ、あか山は現在の奥谷町にある松江北高校付近とされる。元和四年(一六一八)五月二〇日の北島広孝裁許状(井上家文書)によると、「嶋根郡末次之内奥谷村産雅大明神」の祠官井上左近大夫藤原正清は国造北島広孝から神事参勤の際の風折烏帽子・狩衣の着用を許可されている。


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]国府町奥谷・奥谷一―三丁目・稲葉丘いなばがおか一―三丁目・新通しんどおり二丁目・分上ぶんじよう二―四丁目

宮下みやのした村の北西、宇倍野うべの(現稲葉山)山麓に位置する。集落はもと北の谷間奥屋敷おくやしきにあったという。「因幡民談記」によれば「ヒバノ谷」にはかつて一宮の宮寺であった「寺千軒」があったという。「因幡志」には神宮寺と想定される専構寺の名がみえ、寛文大図(倉田八幡宮蔵)には「健国寺跡」と記されている。「鳥府志」および同書所収の宮部氏時代の袋川筋想定図によれば「岩倉の前より奥谷の松原の方」はふくろ川の旧路にあたり、古川跡は一段低く出水時には往来が困難であったという。


奥谷村
おくのたにむら

[現在地名]米子市奥谷

日原ひばら村の西にある。東と西を北へ延びる丘陵に挟まれる麓部に位置し、南を北西流する加茂かも川流域に耕地が広がる。ほぼ南北に法勝寺ほつしようじ往来が走る。拝領高は四八〇石余、本免四ツ六分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五二八石余、竈数五〇。「伯耆志」では林一三町三反余、家数五〇・人数二三三。寛永一四年(一六三七)坂鳥役を免除された(在方御定)


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]吉川町奥谷

永門前えいもんぜん村の南に位置し、美嚢みの川支流の奥谷川上流の丘陵地に立地する。東は栃谷とつたに村、西は箕畑みのばた村、南は北僧尾きたそお(現神戸市北区)柏谷かしだに村とも記し、慶長国絵図に「かみ谷」「かい谷」とみえるのが当村のことか。領主の変遷は延宝七年(一六七九)までは市野瀬いちのせ村に同じで、以後幕末まではおき村と同じ。正保郷帳には「栢谷村」とあり、田方二五四石余・畑方四五石余。元禄郷帳に奥谷村とみえ、「古ハ柏谷村」と注記される。高三三九石余。以後幕末まで村高は変わらない。播磨に入部した丹羽氏は初め当村に陣屋を設置する予定であったが、所領のほぼ中央部に位置する加東かとう三草みくさ(現社町)に変更したという。


奥谷村
おくのやむら

[現在地名]茨城町奥谷

涸沼ひぬま川の右岸に位置し、川を隔てて北は小鶴こづる村。中世は宍戸氏の支配下であった。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に、おきのや村六二五・六四石がある。江戸時代は水戸藩領となり、元禄郷帳には「奥野谷村」、享保四年(一七一九)の法円寺過去帳(同寺蔵)には「奥ノ谷村」とあり、同二〇年の同過去帳に「奥谷村」とみえる。天保一三年(一八四二)の検地では田畠七九町余、分米六五三石余(新編常陸国誌)


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]青谷町奥崎おくさき

山崎やまさき村の南、日置ひおき谷中央部の西山麓に位置し、南は大坪おおつぼ村、東は日置川を挟んで養郷ようごう村。拝領高は二四三石余、本免は五ツ六分。林氏・小泉氏・岸本氏のほか、東館家家臣原田氏・西館家家臣石脇氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三四。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高二六七石余、竈数三六。当村周助は数代にわたり農閑期に椀類を仕入れ、細工をして商いをしていた。


奥谷村
おくのやむら

[現在地名]加賀市奥谷町

大聖寺だいしようじ川の支流奥谷川の上流域にあり、下流はたちばな村。川沿いに集落を形成し、村域大半は一〇〇メートル前後の山地。大聖寺町の毫摂ごうしよう寺は一時期この地の寺垣内てらがいとという所にあったと伝える(江沼郡誌)。天文二四年(一五五五)七月、越前朝倉教景の江沼えぬま郡侵攻に従った堀江景忠は一千余騎を率いて「熊坂・奥屋ヲ放火」したという(朝倉始末記)。正保郷帳によると高六九六石余、田方三一町九反余・畑方一二町七反余、物成高三四八石余。


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]郡家町奥谷

宮谷みやだに村の北に位置する。慶長九年(一六〇四)六月の池田長政領知目録写(岡山大学付属図書館蔵)に村名がみえ、当村の六四五石余が鳥取城主池田長吉からその子長政に与えられている。藩政期の村高に比して多いのは村切が異なっていたのであろう。藩政期の拝領高は三二七石余。本免四ツ七分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高三四三石、竈数一五。「因幡志」では家数一九、産土神宮谷村の加茂大明神。


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]根尾村奥谷

口谷くちだに村南東の山間に位置し、当村東端に根尾東谷の村村から山県やまがた神崎かんざき(現美山町)へ越える尾並坂おなべさか峠がある。正保郷帳によれば田一石余・畑七八石余・紙桑木高一九石余・山年貢九石余。貞享二年(一六八五)大垣藩の内検で村高一〇一石余となった(大垣領村々高帳)。宝暦五年(一七五五)宗門改帳(大岩文書)によれば家数七・人数三五。


奥谷村
おくだにむら

[現在地名]西吉野村大字奥谷

夜中よなか村の北に続く丘陵上に立地。古田ふるた郷のうち。慶長郷帳では「貝谷村」とあるが誤記であろう。村高は三四一・二七三石、幕府領(代官角南主馬)。その後、延宝検地が実施され、大堀おおぼり村の分離もあり、元禄郷帳の村高は二四二・五七九石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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