清盛塚(読み)きよもりづか

日本歴史地名大系 「清盛塚」の解説

清盛塚
きよもりづか

[現在地名]兵庫区切戸町

切戸きれと町南端の道路沿いにある鎌倉時代の十三重石塔で、基礎部分に「弘安九 二月日」の銘がある。平清盛福原ふくはらから京都へ還都して三ヵ月余り後の治承五年(一一八一)閏二月四日に没し、遺骨は播磨国山田やまだ法花堂に納めるよう遺言したという(吾妻鏡)。しかし流布本「平家物語」には七日に愛宕おたぎ(現京都市東山区)火葬に付し、遺骨は摂津きようしまに納めたとあり、この塔は桓武平氏の流れをくむ執権北条貞時が供養のために建立したとも伝えられている(兵庫名所記)。慶長国絵図には薬専やくせん(薬仙)寺の北に清盛石塔とビワ塚、その北に道場が描かれており、近世初頭には清盛塔という伝承があったようである。

清盛塚
きよもりづか

音戸ノ瀬戸の倉橋くらはし島側の海岸にある岩礁石垣を築き、その上に立つ宝篋印塔。室町時代のものと思われ、高さ二メートル余。清盛が音戸ノ瀬戸を開削したという伝説が成立するのは文献的にも室町時代と思われるが、この塔に関するもっとも古い史料は、今のところ天正一六年(一五八八)の「輝元公御上洛日記」の七月九日条で、「午ノ刻ニ瀬戸を御舟被出、此戸中に清盛ノ石塔有之」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報