朝日日本歴史人物事典 「清野勉」の解説
清野勉
生年:嘉永6(1853)
明治期の哲学者。駿河国(静岡県)駿東郡上野村の眼科医清野一学・智恵子の次男。兄勇は三高教授兼大阪府医学校長。幼少より父に漢学を学ぶ。幕末,沼津の西間門村に移住。明治1(1868)年に旧幕臣の静岡藩士の子弟に限られていた沼津兵学校に地元平民出身者として唯一例外的に入学を許可された。第5期資業生として3年に上京,中村正直について学ぶ。5年,海軍兵学校で英語を教えるが,まもなく帰郷,独学で哲学を研究し,16年に『格致哲学緒論』を刊行。20年,井上円了が創立した哲学館(東洋大学)教授となり論理学を教授。27年真宗大学(大谷大学)で哲学を講ず。カント哲学の研究に専念し,29年日本で最初の原典によるカント研究書である『標註 韓図純理批判解説』を刊行。カント哲学の先駆的紹介者で哲学用語の訳出に積極的提言をした。30年には高山林次郎,木村鷹太郎らと大日本協会を結成,「新神道立脚の地盤」を発表。国粋主義の論客でもあった。<著作>『帰納法論理学』『理学大意』『普通論理学』『帰納論理経世危言』<参考文献>三枝博音『近代日本哲学史』,船山信一『明治論理学史研究』
(大濱徹也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報