ソフィア(読み)そふぃあ(英語表記)Sofia

翻訳|Sofia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソフィア」の意味・わかりやすい解説

ソフィア
そふぃあ
Sofia

ブルガリアの首都。同国西部、北のスタラ・プラニナ(バルカン)山脈と南のビトシャ山に囲まれたソフィア盆地に位置する。人口117万3988(2001)。

[寺島憲治]

地誌

ブルガリア最大の人口を抱え、ソフィア市だけで特別行政区を形成している。標高550メートル。年平均気温は10.5℃と比較的穏和な大陸性気候だが、盆地のために冬にしばしば濃霧が発生し、飛行機が欠航になることもある。ビトシャ山やリラ山脈の地下水系や水脈に恵まれていて、市内や郊外には温泉や鉱泉があって市民に利用されている。ビトシャ山はスキー場を備え、四季を通して市民のスポーツと憩いの場になっている。

 ソフィアはローマ時代以来、イスタンブールからプロブディフを経てベオグラードへ至る道と、ドナウ平原からイスカル渓谷を経てソフィア平原を経由し、ストルマ川沿いにギリシア第二の都市テッサロニキへ至る道の二つの幹線道路の交差点にある。これらの幹線道路に沿って鉄道も敷設されている。市内の交通は、中心部では市電(トラム)、トロリーバス、バスが利用され、郊外とはバスで結ばれている。

 市は社会主義時代に、機械、冶金(やきん)、化学工業などの工場が建設されて急成長し、大工業都市となった。成長につれて人口も増加し、1956年には約60万人であったが、80年代には100万人を突破した。流入する人口を吸収するために、近郊に新興団地の建設が続いた。しかし社会主義体制崩壊後、クレミコフツィ製鉄所などの深刻な環境汚染、団地の居住環境、流通、交通、通信、教育などの施設整備の遅れなど、社会主義体制下で放置されてきた矛盾が、ソフィアの抱える新たな社会問題としてクローズアップされた。

 ソフィアはまた、ブルガリアの科学と文化の中心地であり、ソフィア大学をはじめとして、大学や科学アカデミー、研究所、博物館などがある。また古い歴史を反映して市内には多くの歴史的建造物がみられる。ローマ帝国領時代の聖ゲオルギオス教会(4世紀)、ビザンティン帝国領時代の聖ソフィア教会(6世紀)やセルディカ東城門跡(6世紀)、オスマン帝国領時代のブユク・ジャミヤ(現在、国立考古学博物館)、アレクサンドル・ネフスキー聖堂(1904~12年)などが代表的なものである。さらにソフィアは公園が多く、鉱泉もあり、多くの観光客が訪れる。

[寺島憲治]

歴史

トラキア人の一派であるセルディ人の紀元前8世紀の集落に起源する。紀元前29年にローマ人がここを占領するとセルディカSerdicaと名づけて、一帯の軍事・行政の拠点とした。トラヤヌス帝時代(在位98~117年)に自治都市となり、コンスタンティヌス大帝の時代(在位306~337年)に繁栄期を迎え、コンスタンティノープルと並んでローマ帝国の首都移転の候補地ともなった。343年には、キリスト教の三位(さんみ)一体説の確立に重要な役割を果たしたセルディカ会議(反アリウス派宗教会議)が開催された。この会議には、西のコルドバ(現スペイン南西部の都市)や東地中海のアンティオキア(現トルコ南部の都市アンタキヤ)などから総勢170名ほどの主教が参加したという。4世紀末、ソフィアはビザンティン帝国領内に入り、5世紀にアッティラとフン人の略奪を受け荒廃したが、6世紀に再興された。6世紀末以降、スラブ人が南下すると、ソフィアの民族的な構成は根本から変化した。809年、ブルガリア王クルムがここを占領すると、以降スラブ名スレデッツSredetsで知られ、農業、牧畜と地域の通商の中心地として栄えた。11~12世紀にはふたたびビザンティンの支配下に置かれたが、12世紀末に第二次ブルガリア帝国が成立するとブルガリア領となり、14世紀には聖ソフィア教会にちなんで現在の市名が用いられるようになった。1385年にオスマン帝国領となり、後にルメリア州の州都となると、ブユク・ジャミヤなどのイスラム寺院(ジャミヤ)や隊商宿(キャラバン・サライ)が建設されてしだいにイスラム的な都市景観を備えた。オスマン帝国が西に拡大するにつれて、ソフィアは行政的な重要性を失ってゆくが、手工業や通商の要所であることには変わりなかった。18世紀には、陶工、銅細工屋、靴屋、仕立屋などブルガリア人の加わるギルドが20ほど生まれ、トルコ人と並んで彼らも職人として力をつけるようになった。しかし、18世紀末から19世紀初頭にかけて、中央権力の緩みから略奪などが横行して地方の秩序が乱れたために、クリミア戦争(1853~56年)を境に急速に衰退した。

 1878年にブルガリアはオスマン帝国から独立を果たした。当時ソフィアは、人口1万1964、学校2、教会7、ジャミヤ30、商店120が軒を連ねる都市で、当時の最大の都市であるルセやバルナなどドナウ川や黒海沿岸の都市と比べると、中規模の都市にすぎなかった。しかし、79年にブルガリアの首都に定められると、翌年、最初の近代的な都市計画がつくられ、王宮(1881)、国会(1884)、ソフィア大学(1888)、ロシアによるブルガリアの解放を記念するアレクサンドル・ネフスキー聖堂(1904~12年)などが建設され、1901年には市電が導入されて首都としての様相を整えた。また1888年にギムナジウム付属の高等教育課程として設置された施設が、1904年に独立してソフィア大学として発足し、11年にはブルガリア著述家協会が改組されて、ブルガリア科学アカデミーが設立され、近代文化の中心都市となった。

 第二次世界大戦中は、ブルガリアが枢軸国に加わったため、1943~44年にソフィアは英米の空爆を受け、約2600の建物が完全に破壊された。44年9月9日に、ソ連軍のブルガリア侵攻にあわせて、祖国戦線がソフィアでクーデターを起こし終戦を迎えた。50年前後に共産党政権が権力を固めると、ディミトロフ廟(びょう)(1949年建設、1999年解体)、党本部(1953)など、いわゆる「スターリン様式」の建物が建てられた。

 1989年の東欧革命後、社会主義体制のシンボルだった党本部の「赤い星」がはずされ、戦後のブルガリア人民共和国の創設者とされたディミトロフの遺体を納めた廟も遺体が撤去され、99年には廟そのものも解体された。

[寺島憲治]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ソフィア」の意味・わかりやすい解説

ソフィア
Sofiya

ブルガリアの首都。州に準ずる特別行政区域で,ソフィア州の州都でもある。ブルガリア中西部,バルカン山脈南側のソフィア盆地の南,ビトシャ山の北麓に位置する。前8~7世紀にトラキア人の集落として始まったが,前 29年ローマ軍に占領されて以後セルディカと呼ばれ,3世紀にはローマの属州トラキアの行政上の中心となった。 809年,第1次ブルガリア帝国の版図に入りスレデツと改称されたが,ビザンチン史家はトリアディツァと称した。この地方の政治的,軍事的要地として,ビザンチン治下 (1018~1185) および第2次ブルガリア帝国 (1186~1396) を通じて繁栄。 14世紀以降は聖ソフィア聖堂の名をとってソフィアと呼ばれるようになった。 1382年,オスマン帝国による占領後は,そのルメリア自治領の中心地であったが,クリミア戦争 (1853~56) 後は衰微し,1879年,解放ブルガリアの首都となったときには人口1万 5000程度であったといわれる。以後は急速な発展を遂げ,ブルガリアの政治,経済,文化,交通の一大中心地となった。現在も人口,産業の集中が著しい。機械,金属,食品加工,衣料,印刷などの工業が発達。郊外には工業コンビナートや住宅団地が建設されているが,市内には緑地や歴史的記念物が多く保存され,落ち着いたたたずまいを残している。市内の主要建築物は 15世紀のイスラムのモスク,ブユク・ジャミア (現考古学博物館) ,旧王宮 (現国立美術館,1884) ,国会議事堂 (1884) ,アレクサンドル・ネフスキー大聖堂 (1904~12) ,ソフィア大学 (1904) ,公営市場 (1910) ,歴史博物館 (1928) ,国立銀行 (1928) などで,ほかに多くのローマ時代の建築の遺跡や遺構が発掘保存され,19世紀以降の聖堂も多い。人口 120万4685(2011)。

ソフィア
sophia

「知恵」の意。ギリシア語 sophiaには職人の技術知という意味もあったが,ヘロドトス頃までに理論的知識の意が含まれるようになった。ヘラクレイトスは,当時 sophistēs (賢者) と呼ばれていたピタゴラスの sophiaを polymathiē (博識) として,真実を語る sophiaと区別,またプラトンは,真の sophiaは神にのみ属するものであり,philosophia (愛知) の究極の対象であるとしてソフィストたちの主張する知識と峻別した。さらにアリストテレスでは最高の知性的な徳としての sophiaが実践的知識としての phronēsisと対比され,theologikē (神学) である第一哲学も sophiaと呼ばれている。一方キリスト教においても,キリストが神の力 theou dynamis,神の知恵 theou sophiaともいわれ,sophiaは神に帰属する至高のものとして示されている。

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