渡辺敏(読み)ワタナベ ハヤシ

20世紀日本人名事典 「渡辺敏」の解説

渡辺 敏
ワタナベ ハヤシ

明治〜昭和期の教育家 長野高等女学校校長



生年
弘化4年1月28日(1847年)

没年
昭和5(1930)年2月21日

出生地
陸奥国二本松(福島県二本松市)

旧姓(旧名)
浅岡

学歴〔年〕
東京師範〔明治8年〕卒

経歴
師範学校卒業後、明治8年長野県大町の仁科学校(現・大町西小)に招かれ、いったん郷里(旧二本松藩士)の福島県に戻った後、19年再び長野県に来県し、長野小学校(城山・後町小)の校長に就任。29年県下で初の長野高等女学校(現・長野西高)を創設、校長に就任。大正5年に退くまでの間、初等教育、女子教育はもちろん、障害児教育、実業教育、科学教育など多方面で活躍し、信州教育界に大きな足跡を残した。特に晩熟生学級は日本では最初の取り組みであった。また、近代登山に関心を持ち、35年から戸隠登山を指導した。昭和62年7月、長野市教育会編さんの全集「渡辺敏全集」が出版された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「渡辺敏」の解説

渡辺敏

没年:昭和5.2.21(1930)
生年:弘化4.1.28(1847.3.14)
明治大正期の教育者。陸奥国(福島県)の浅岡段介・竿の子として生まれ,戊辰の役に従軍後,母方の渡辺姓を継ぐ。明治8(1875)年東京師範学校卒業後,長野県の仁科学校,福島師範,長野小学校などを経て29年長野高等女学校(長野西高校)の初代校長となる。女子の体育普及に力を入れ服装改善を図ったことで知られる。また科学教育,音楽教育のほか広く社会人教育の普及も唱えた。近代登山に深い関心を持ち,まだ信仰登山が多かった時代に登山をスポーツとしてとらえ,35年から大正5(1916)年の長野高女退職時まで率先して戸隠登山を指導し,多くの女生徒にその喜びを体験させた。<参考文献>長野市教育会『渡辺敏全集』

(梅野淑子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渡辺敏」の解説

渡辺敏 わたなべ-はやし

1847-1930 明治-昭和時代前期の教育者。
弘化(こうか)4年1月28日生まれ。もと陸奥(むつ)二本松藩(福島県)藩士浅岡一の兄。母方の姓をつぐ。福島師範教諭,長野小学校校長などをへて,明治29年長野高女(現長野西高)初代校長となる。女子の体育や登山を奨励した。昭和5年2月21日死去。84歳。東京師範卒。著作に「一罎百験」。
格言など】一の試験管能(よ)く十余疑問に答う(「一罎百験」)

渡辺敏 わたなべ-つとむ

わたなべ-はやし

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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