( 1 )①は明治期に西洋の教育制度の導入が図られた際に作られた訳語。
( 2 )②の教科名としては、一八七二年の学制発布時は「体術」であり、翌年に「体操科」と改称、さらに第二次世界大戦中に「体練科」と改められた。「体育科」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。
語源からいえば「身体(からだ)の教育」。発生からいうと「教育機関である学校における児童・生徒の心理的、精神的、社会的に健康な身体(からだ)づくりの教育」。したがって、伝統的には学校における体育(教科としての体育科または保健体育科の授業)をさしている。しかし学校生活においては課外のスポーツ活動もあり、広義にはこれらのスポーツ活動における教育も含まれている。こうしたものを総称して「学校体育」といっている。学校体育は、身体運動が人間形成に及ぼす影響をさまざまな現象から多角的にとらえ、運動や遊戯そのものを教えると同時に、スポーツを含む運動や遊戯を教材にして、人間の知覚―運動行動能力や文化認識を深め、運動することの意味や人間にとって健康とは何かを理解させていく教育をさしている。
スポーツは語源的に遊戯の類(たぐい)に属する活動であるが、競争的要素を含み自己課題的である。また自己決定という点において自由と創造的世界をもっている。したがって、競争や協同を含むスポーツ活動のなかに自己陶冶(とうや)や意志の訓育的意味を強く求めるとスポーツ教育sports educationとなり、広義の体育となる。このように、「体育」は身体や運動の文化的意味のとらえ方によって、広義にも狭義にも解釈されている。
[佐藤 裕]
人類の歴史における身体運動や運動技術と人間のかかわりは、原始時代の狩猟、農耕の道具や技術の発展に端を発し、身体活動の生活化・実用化から運動遊戯化へ、さらにスポーツの文化化や人間教育へという発展の経緯をたどっている。世界史における体育の発生は、エジプトの水泳、ダンス、狩猟、体操、レスリング、軽業(かるわざ)(曲芸)、球戯、メソポタミアの水泳、弓射、馬術などのスポーツ的活動の存在期(前4000)に端を発する。その後ギリシアの墓前競技、国賓歓待行事、余暇活動が文化として形成される(前776ころ)。ここでは祭礼にスポーツ競技が行事の一環として実施され、ポリス(都市国家)が青少年教育を重視し、史上最初の学校体育を出現させた。ギリシアの体育は理想国家建設のための方策、教育内容として位置づけられていたといってよい。
中国では黄河流域から教育が開け、漢の時代に六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)が上流階級社会に必須(ひっす)とされ、とくに射・御(乗馬)は社会的職分としての武技とされ、精神陶冶の一助とされた(前551ころ)。
[佐藤 裕]
学校体育の成立は、1774年にドイツの汎愛(はんあい)派のバゼドウが汎愛学院Philanthropiumで児童に体育を教科として採用したことに始まる。当時の体育としては、ダンス、乗馬、野外散歩、駆け足、レスリング、水泳などの鍛錬的種目を採用した。その後、ヨーロッパではドイツ体操やスウェーデン体操などの中心教材を発展させ、イギリスではフットボールによる人間形成を発展させた。アメリカではこれらを受けて1920年に独自の体育体系を育て、健康教育、保健事業と関連させた科学的なスポーツ・レクリエーション教育を発展させた。他方、ソビエト連邦では1918年に社会主義国家建設のため、労働―生産―防衛のための体育体系を発展させた。
日本では1872年(明治5)の学制発布により「体術」が採用され、翌年に「体操」という名称に変わった。1886年には学校令の制定があり、普通体操、兵式体操時代に入るが、日清(にっしん)・日露戦争に伴って富国強兵論、国家主義が台頭し、体操に撃剣、柔術などの武術が心身鍛錬の教材となり、中学、師範(男子)学校に採用された。大正期に入って学校体操教授要目が制定され(1913)、スウェーデン体操、遊戯、スポーツ、教練が加えられ、毎週6時間実施された。体育の戦時体制化の悲劇は1938年(昭和13)の国防競技、体力章検定の実施(1939)に始まる。体力局を含む厚生省の新設(1938)によって国民体力法が制定され(1940)、第二次世界大戦に突入する。そして、大日本体育協会、スポーツ団体を解散し、新設の大日本体育会、大日本武徳会などを中心とした翼賛体制を確立し、スポーツの国粋化、戦場運動化、武道の実戦化を推進した。また洋式スポーツ名称は日本語化され、国民学校令制定に関連して皇国民の育成と国防能力の向上を目ざし、教科名を「体錬科」と改め、スポーツの軍事化を行った。
1945年(昭和20)第二次世界大戦終結により平和・民主化による教育再建が行われ、戦時中の皇国思想を背景とする攻撃戦闘の手段と化した武道や、戦技化されたスポーツが一掃され、平和・健康・幸福を目ざした学校体育が誕生する(1947)。学校体育指導要綱はこの点で歴史的意味をもつ。「体育」(小学校)、「保健体育」(中・高等学校)の合教科(合体した教科)名称ができたのはこのときからで、大学では1949年に保健体育が必須化された。教科として行われる学校体育は、(1)身体諸器官の発達、(2)運動技能の向上、(3)社会性の発達、(4)運動、健康認識や態度の育成、を目ざしている。そのための教育課程がそれぞれの学校段階において、児童・生徒の発達や変動し発展する社会的要請や科学の進歩を踏まえながら、およそ10年ごとに指導要領を改訂して教育内容の検討が行われている。現在では体育領域と保健領域の2分野から相互関連的に内容が編成されている。
[佐藤 裕]
語源的にはスポーツ・レクリエーションをさし、社会教育と学校教育との関係と同義に解される。したがって社会体育は「学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む)をいう」(社会教育法2条)とされている。
現代社会においては体育概念も領域も拡大され、科学技術の進歩に伴うマス・メディアの発達により、やるスポーツ、見るスポーツともに人々の身近に情報化が進み、スポーツ・レクリエーションの大衆化が急速に進行している。他方では社会福祉問題にも関連し、心身障害者をはじめ先天的に発達を阻害された人々に活力を賦与するための体育、加齢とともに運動機能の減退していく高齢者までも含めた「生涯体育」まで、学校卒業後の健康管理をも考えた幅広い体育が展開されている。また職場の健康安全管理といった側面では職場体育が、地域住民の健康推進のためには地域スポーツが多様な活動形態として組まれている。こうした第二次世界大戦後の社会体育の発展基盤としては、国民体育大会の開催(1946)、労働基準法の公布(1947)、ラジオ体操の放送再開(1951、1952)、地域スポーツの振興についての文部次官通達(1957)、国民体育デーの実施(1958)、スポーツ振興法の制定(1961)、体育の日の制定(1966。2020年からの呼称はスポーツの日)をはじめとし、地域社会のスポーツ指導員の育成などがあげられる。1961年を基年にスポーツ施設の拡充計画として展開された西ドイツのゴールデンプラン(黄金への道)は、老若男女すべての国民が健康・レクリエーションなど人生の喜びを味わえる体育・スポーツ振興政策として、日本の社会体育施設ならびにその実行計画に多大の影響を与えた。とくに第二の道Zweiter-Weg、ドイツ・スポーツ連盟のスポーツ憲章(1966)、トリム運動Trimm Aktionは、国民ひとりひとりにスポーツ・レクリエーションをどのように浸透させるかという点で、日本における社会福祉や国民の健康の基礎として原形的役割を果たした。
このようにスポーツ教育運動を学校以外で民間団体、地域公共団体などが主体的に取り組む活動を社会体育とよんでいる。こうした社会での体育活動は、スポーツ振興法や大衆化に伴って今後多様に発展する傾向にある。学校体育の教育内容は、種々の運動遊戯やスポーツのなかに潜む学習性の価値によって選択構成される。一方、社会体育の教育内容は、学校体育で獲得した基礎的な運動や知識を発展させ、遊戯化あるいは活動化し、生活化・社会化を通した文化発展や創造的活動をするところに価値が求められるようになっている。
[佐藤 裕]
今日、これまで二分されていた学校体育と社会体育は、それぞれの機能を相互補完関係で考え、地域・学校・家庭を相互関連的にとらえた新しい組織化の改革段階に入った。こうした社会的動向にしたがって、文部省(現文部科学省)は1998年(平成10)~1999年に小・中・高校の学習指導要領の改訂を行った。新学習指導要領によると、義務教育段階において、小学校では生涯を通じて活力のある生活を送る基礎をつくることを目的として、体育に「健康」が加えられた。中学校では、体育分野は運動領域群を整理して選択制を導入し、運動の特性や学び方、体力づくりと運動の効果を実践を通じて認識させるよう内容構成している。また、保健分野では、自然とのかかわりを重視し、心の健康、ストレスへの対応とともに「自己形成への能力」を強調している。とくに体育とスポーツの関係に着目すると、新指導要領では特別活動の領域から「クラブ活動」を除外し、地域スポーツクラブ組織を充実させ、学校体育と社会体育の連係を図ろうとしている。
ここまで述べてきたように、体育とスポーツは密接な関係にあるが、最先端のエリートスポーツにおいては最高記録や勝敗の追求のための「プロフェッショナル化」が進行し、運動の技術やトレーニング科学の飛躍的な進歩に伴い、薬物投与による不健康なドーピングなど人体の改造まで行うようになり、先端スポーツの技術開発と、健康を求める大衆スポーツの間の格差や矛盾はますます増大しているのが現状である。この問題は「人間にとって体育・スポーツとは何か」を考える点で、21世紀に課せられた大きな課題でもある。
[佐藤 裕]
『日本体育協会監修『現代スポーツ百科事典』(1970・大修館書店)』▽『猪飼道夫・江橋慎太郎・飯塚鉄雄・高石昌弘編『体育科学事典』(1972・第一法規出版)』▽『細谷俊夫・奥田真丈・河野重男編『教育学大事典』(1978・第一法規出版)』▽『松田岩男・宇土正彦編『現代学校体育大事典』新版(1981・大修館書店)』▽『吉本均編『現代授業研究大事典』(1987・明治図書出版)』▽『宇土正彦監修、阪田尚彦・高橋健夫・細江文利編『学校体育授業事典』(1995・大修館書店)』▽『中村敏雄編『戦後体育実践論』1~3巻(1997~1999・創文企画)』▽『松岡重信編『保健体育科・スポーツ教育重要用語300の基礎知識』(1999・明治図書出版)』▽『杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』(2001・世界思想社)』
身体運動を媒介として人間形成をめざす教育的な営み。英語ではphysical educationという。人間は原初から生活するために身体運動を続けてきたが,そこから,水泳やダンス,レスリングなど多くのスポーツが発生した。しかし,スポーツと人間形成との関連が問題にされるようになったのはギリシア・ローマ時代以後である。
古代ギリシアではオリンピックなどの祭典が全国的な規模で行われ,前5世紀のペルシア戦争でみせたような民族の団結をもたらした。また,ポリス(都市国家)の青少年は読み書き,算数とムシケmousikē(音楽や文芸),ギュムナスティケgymnastikē(体育)の教育を受けたが,そこでも祭典競技の種目が採用された。体育の実習をする場所はパライストラpalaistraといわれ,一般の人がスポーツを行うギュムナシオンgymnasionと併設されることが多かった。この時代にソクラテスは,すべての青年がオリンピック出場者に劣ってはならないとして身体の鍛練を強調し,プラトンは体育と医術を対比して,体育は身体の善の否定態(つまり病気など)からの回復をはかるテクネ(技術)である,と述べている(《ゴルギアス》)。プラトンはさらに《国家》において,ムシケにギュムナスティケを混ぜ合わせて,それを最もふさわしく魂にあてがう人が理想国家の国守りとなる条件だとしている。アリストテレスも《政治学》において,自由人は自己の社会的任務を果たしうる体力を養成するべきだと記している。しかし,ポリスの崩壊が進むにつれて体育の役割も減少し,スポーツは職業選手が中心になって行われるようになった。ローマ時代にはスポーツが見世物として歓迎され,さらに職業化,興行化されていった。風刺詩人ユウェナリスは〈祈るなら,健全な身体に健全な精神があるように祈るべきだろう〉と書いたが,この句はのちにイギリスのJ.ロックが省略して引用し,日本でも明治30年前後から〈健全な精神は健全な身体に宿る〉という成句となって知られた。
中世のヨーロッパはキリスト教に支配され,地上の国よりも〈神の国〉が重視されたが,封建制度が安定してくると,騎士の身体訓育や貴族のスポーツのほかにも,フットボールやテニスなどの近代スポーツの萌芽がみられた。ルネサンスを迎えると,身体が教育の基礎として見直されるようになった。それはまず理念としてのギリシア体育の復活であり,プラトンの思想が鍛練主義的な面で強調された。モンテーニュ,コメニウス,ロック,ルソーらがその線上にあり,実践的な活動が盛んになるのは18世紀後半に入ってからである。すなわち,J.B.バゼドーは汎愛学校ではじめて体育を授業に組み入れ,J.C.F.グーツ・ムーツは学校体育を確立し,F.L.ヤーンはドイツ体操を創始し,P.H.リングはスウェーデン体操を考案した。こうして近代体育が軌道に乗り,19世紀を通じて世界各国へ普及,普通教育の教科の一つとしてとり上げられるようになった。イギリスでは,ラグビー校の校長T.アーノルドの提唱によってパブリック・スクールにおけるスポーツの実践が奨励されたこともあって,屋外での自主的なスポーツが盛んであったが,そのため小学校への体育の導入は,他の国よりも遅れて1909年になった。
20世紀に入ると,形式にとらわれ硬直していた体操の解放をめざして改良が加えられ,また,音楽の併用による柔軟でリズミックな身体運動が考案されるようになった。第2次大戦後はスポーツ,レクリエーションが盛んになるにつれて体育の対象も拡大し,単に学校教育の場だけでなく,社会全域における幼年から老年までの体育が要請されるようになった。いまや体育は身体および精神を,人間存在の諸相に即応させつつ育成し,健康を保持増強して,生の高揚をはかる営みということができる。
執筆者:水野 忠文
日本の学校教育で体育に関する教科が設けられたのは,1872年(明治5)〈学制〉が発布され,小学校の教科として〈体術〉という教科が〈養生法〉とともに定められたことに始まる。〈体術〉はその翌年に〈体操〉と改められたが,その中心教材は体操であった。明治時代前半は西洋の知識を摂取することが重視され,体操科の目標も外来の体操を摂取して,児童生徒の保健と学習効果の向上をはかることであった。しかし,教育勅語(1890)によって学校教育は天皇制絶対主義国家体制をささえる柱としての役割を課せられるようになり,体操科にも大きな変化が生じた。明治政府は富国強兵を基本政策としたが,体育に関しては,西洋諸国の国民に比べて著しく劣る日本国民の体格と体力をいかに高めるかが一つの課題であり,一方では,国家が必要とする国民としての精神的資質をいかにして育成するのかという課題があった。すでに86年,初代文部大臣森有礼は,学校令によって学校制度を確立した際,小学校に〈隊列運動〉を,師範学校に〈兵式体操〉を積極的に導入し,それ以来,学校体育は普通体操と兵式体操を主要な教育内容として,国語や修身などとともに国家主義教育の重要な柱とされた。しかも,日清戦争,日露戦争などによって,体操科の国家主義的性格はますます強められていった。明治20年代まで学校教育から排除されていた日本の伝統的武芸である〈撃剣〉や〈柔術〉が,98年に中学校の課外活動での実施を認められ,1913年の学校体操教授要目では〈剣道及柔道〉の正課での実施が認められ,さらに満州事変の起こった31年には必修化されることになった。また兵式体操は,前述の学校体操教授要目において〈教練〉と改められ,25年には教練教授要目が定められて陸軍現役将校が中学校や師範学校に配属され,軍事教練を指導するまでになった。このようにして,体操科の教材分野である武道や教練は,それぞれ専門の教員や配属将校が担当することからも,さながら独立教科の観を呈するようになった。そして,日米開戦の41年には小学校が国民学校に改められ,〈体操〉科も〈体錬〉科へと名称が変更された。体錬科の目的は〈身体を鍛錬し精神を錬磨して濶達剛健なる心身を育成し献身奉公の実践力に培う〉(国民学校令施行規則)ことにあると示され,それが国防力にとっても必要であるとされた。
1945年太平洋戦争が敗戦に終わり,連合国軍の管理下でまず教練や武道などが禁止され,体操も反復訓練はのぞましくないとされた。次いで,46年の第1次アメリカ教育使節団報告書や翌年文部省が出した〈新教育指針〉は,これからの学校体育では,これまでの軍国主義的・国家主義的教材に代わるものとしてスポーツを奨励し,また課外体育を振興し保健を重視すべきであるとしている。その具体的現れとして,新制中学校には〈保健体育〉科が設けられた。これにより,戦前は体操・教練・武道中心であった体育がスポーツ中心,保健重視の方向へと転換をとげることになった。その後60年代に入ると,東京オリンピック(1964)を契機に,〈体育の日〉(1966)の制定をはじめスポーツ振興と体力づくりの施策が相ついで出されるが,学校体育でも体力向上が強調されるようになった。一方では,スポーツの大衆化が進行し,78年のユネスコ総会で〈体育・スポーツをおこなうことは,すべての人々にとって,基本的な権利である〉との宣言(体育・スポーツ国際憲章)が採択され,スポーツ教育ということばも使われるようになった。今日では,スポーツをすべての青少年のものにしていくことと,その体づくりをめざすこととを,どう結合していくかが,学校体育の重要な課題となっている。
→学校体育 →社会体育 →スポーツ →体操
執筆者:中森 孜郎
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… 学校行事としての運動会が普及したのは,85年初代文相森有礼(ありのり)による兵式体操の導入以降のことである。森は体育による集団訓練を重視し,その成果を公表する機会として運動会の施行を極力奨励した。とくに最初の対外戦争である日清戦争を機に,戦意高揚の手段として小学校における運動会は,急速に全国規模をもって普及した。…
…学校の管理のもとでスポーツ,体操,遊戯,ダンスなどの身体運動を用いて,計画的に行われる教育活動をいう。教科,体育行事,特別教育活動の3領域からなる。教科体育では,生徒は運動を通して心身を全面的に形成し,生涯を通じて運動をする基礎的な知識や技術を身につける。…
※「体育」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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